塩辛いしあわせ | ナノ
塾も終わり、俺と雪男しかいない寮に帰ってきても俺は未だ雪男に対して文句をぐだぐだと呪いのように呟いていた。「何で小テストなんてするんだよ」と零す俺に、雪男は「兄さんみたいな人を出さない為だよ」とパソコンのキーボードをかたかた軽快に叩きながら簡潔に返された。おい、俺みたいってどういうことだよ。

「兄さんが毎日復習予習をしていれば小テストなんてしなかったかもね」
「べっ、勉強ぐらい…」
「…してないでしょ?」

返す言葉もない。苦い顔で黙り込む俺に雪男はこちらを見向きもせずに「教科書十四ページ」とだけ言う。確か小テストの範囲の一ページ目だった筈だ。やれってことだろうか。雪男はそれ以上何も言わない。無言の圧力に俺は渋々鞄から悪魔薬学の教科書を取り出した。範囲のページを開いてその膨大な文字の多さに頭が眩む。

「そういやテストっていつやんの?」
「一応来週の月曜に予定してるけど……そうだ、こうしよう。兄さんが赤点とったら暫く兄さんに食費の援助しないから」
「はぁっ!?マジで言ってんの?!」
「本気だよ。僕は祓魔師として仕事をこなしてるから給料が出てるし、それなりに食事には困らないけど、二千円しかない兄さんは生命の危機だよね。まぁ精々頑張って」
「……死ねよホクロメガネ」
「何とでも言えばいいよ。嫌なら勉強すればいい話だろ」

そりゃあ確かにそうだけど…真面目に勉学に励むことがなかった俺には勉強するという行為に苦痛さえ感じる。でもやらねーと今後の俺の生活に支障が…くそっ…。どうしたものかと唸り少し考え込んだ後、突如頭に閃きが浮かぶ。そうだ、誰かと一緒に勉強すれば一人でするよりは楽しいし、何より勉強からは逃げなくなるんじゃねぇの?
頭が良い奴と言えば勝呂だが、あいつはきっと馬鹿な俺に対して厳しくしてくるだろうから却下だ。しえみは店番があるから忙しそうだし、志摩は…なんかダメだ。子猫丸に頼むと自動的に勝呂もオプションでついてきそうだし。っつーか京都組は三人で一グループって感じだからその中の一人に頼んでも必ず残りの二人もくっついてきそうだ。俺に比較的協力してくれて、あまり俺に厳しくない奴といえばやっぱりあいつしかいそうにないな…。ベッドの上に放っていた携帯を掴んでメールの新規作成画面を出していると雪男の冷ややかな視線を感じた。体の向きはそのままに顔だけを俺に向けてじとりと睨みつけるその姿は塾や学校の奴らには絶対見せない姿だ。

「何してるの兄さん」
「いや、勉強やめたワケじゃねーから。苗字にメールしてるだけだよ」


「……苗字さん?何で?」


雪男は引き出しから資料か何かを取り出してから、体ごと俺に向き直ると再度「何で苗字さん?」と問い掛けてきた。その視線は資料に落とされているものの蛇か何かに睨まれているような気がしてくる。

「べ、勉強一緒にやろうと思って…それ位いいだろ?!」
「…ああ、うん…そうだね。ごめん」
「いや…別に…」
「……でも、」
「?」
「苗字さんだって勉強しなきゃいけないんだから、苗字さんのこともちゃんと考えてあげて」
「ああ、分かってるよ」

苗字が俺に教える前提かよ…いやまあ教えてもらうつもりだったけど…。当然苗字のことは考えているつもりだ。俺だって自分のことしか考えられないような自己中心的な人間じゃない。雪男は俺の返答に「ならいいけど」とこちらを見向きもせずにまたパソコンに向き直ってしまった。後ろ姿は寂れたサラリーマンみてーだ。

苗字にメールを送り終え、伸びをしながら放置していた教科書をもう一度手にとって読んでみる。授業はちゃんと聴いてるつもりなんだけどな。全然分かんねぇや…もしかして雪男の説明が悪いんじゃねーの、などと考えているとすぐにメールの受信を知らせる音が鳴る。苗字だ。返事は勿論俺の願い事を受諾してくれる内容で、俺は思わず「よっしゃ!」とガッツポーズを決め込む。これなら大丈夫そうだ。

そう思っていると、突然雪男の方からばきりと固い何かが砕けた音が聞こえてきた。

「どうしたんだ?大丈夫か?」
「うん…ちょっと力入れたら折れちゃって。安物だからだね」

雪男に近寄り机上を見れば真っ二つに折れたシャーペンと、シャーペンの中に入れていたらしい大量の芯が散らばっていた。酷ぇな。っていうかどんだけ力入れたら折れるんだよ。とりあえず片付けようと手を伸ばすと雪男がそれを制止した。んだよ、折角人が綺麗にしようと思ってたのに…。

「兄さんは掃除より勉強をしてよ。これぐらい一人で出来るから」
「でもよー」
「いいから、ほんと、お願い。頼むよ」

まるで俺を遠ざけたいみたいに雪男は喋った。そこまで言われたら俺だって勉強に戻るしかない。元いた場所──つまりはベッドの上だが──に戻り暫く雪男の様子を見遣る。雪男は椅子に座ったままぼうっと折れたシャーペンを眺めていた。その顔に表情はない。全くといっていい位にない。


なんだか最近、雪男が、変だ。