塩辛いしあわせ | ナノ



わたくし奥村雪男は、苗字名前をお慕いしているのであります。





白墨を黒板になぞり、かつかつと無機質な音を適当に流しながら昨晩まとめた授業内容をそのまま写す作業はなかなか面倒臭いものだった。背後にいる七人は僕が書き出す文字を必死に写しているのか、話し声は一切聞こえない。いつもよりこの教室が静かなのはきっと一番この教室を騒がせている人物がいないからだ。それと、あともう一人。その人物とは対照的に物静かな人物がいない。一通り板書した後、「奥村君と苗字さんが何処にいるか知ってる方はいますか?」と全体に尋ねれば返ってきたのは「知らない」という期待外れの返答だけだった。

「サボりなんですかねえ…ああ、でも名前ちゃんがサボるわけないしなぁ…」
「いいから早う手動かせや、志摩」
「ほぉい」
「ゆ、雪ちゃん!燐も苗字さんもサボるなんてことしないよ!」

少し慌てたように口を開いたしえみさんに微笑み、「ちょっと心配なだけですよ」と言えば彼女はほっとしたように顔を綻ばせた。
授業中に携帯をいじるのは余り良くないことだと思いつつも懐から携帯を取り出し、電話帳から兄さんの番号を探して電話をかけてみる。数秒経った後、鼓膜を響かせたのは『電波の届かない場所にいるか、電源が切れているでしょう』とお馴染みの女性の声だった。苗字さんの携帯にも繋がらない。何かあったんだろうか。二人は同じクラスだから一緒にいる可能性も低くはないけれど。ざわざわと不安が込み上げてくる中で「そういえば」と朴さんの声が教室に響く。

「私、ゴミ捨てに行ってるところ見ました」
「朴、それ本当?私は見てないけど…」
「うん。塾に行く途中にね、ゴミ袋持った二人が外に出ていってたの」
「じゃあ何でこんなに遅いんや…そないに時間かかるわけ──」

「悪ィ!遅れた!」

突然がらりと扉が開き、飛び込んできたのは僕の片割れである兄さんだ。その後ろから苗字さんも続いて入ってくる。兄さんは片手を上げて「よっ」と僕に挨拶するとそのまましえみさんの隣に腰掛けようとしたので慌ててその首ねっこを掴んで引き止めた。

「『よっ』じゃないです奥村君。遅刻の理由を言ってもらわなければ困ります」
「あー…苗字とゴミ捨て行ってたら場所分かんなくなった上に公務員のジイさんに頼まれ事されてよー」
「……ハァ…心配したよ。携帯で連絡してもでないんだから」
「昨日充電し忘れちゃって途中で切れちゃっててさ」
「すいません奥村先生。元々ゴミ捨ては私一人だったんですけど奥村が手伝ってくれて」

苗字さんが申し訳ない表情で僕の顔を見上げた。兄さんは「見てて心配だっただけだよ」と少し照れたように呟く。

「……いえ、奥村君と苗字さんに何もなくて何よりですよ。さぁ、授業を続けますから二人共席について下さい」

兄さんはしえみさんの隣へ、苗字さんは教室の隅の方へ着席するのを確認してから板書した内容の詳しい説明を始める。昔神父さんから教わった知識を言葉にしながら、頭では全く別のことを考えていた。

兄さんは僕が真面目に授業をしている合間、ゴミを片手に歩いていたのだ。……苗字さんと楽しく話でも交わしながら。そうだ。いつだって兄さんは苗字さんの隣にいる。クラスだって苗字と同じ。掃除当番も何もかも。兄さんはずるい。僕の大切なものや大事にしたいものを何でもない顔で、無意識に真っ正面から奪い取っていってしまう。それが当然の行為だとでもいうように。

さっきまで心配していた兄さんに今では憎しみすら感じる。苗字さんを独占する兄さんが恨めしい。憎くて憎くて仕方がない。まるで病気だ。僕は異常なのだろうか。人間である僕が、悪魔である兄さんより異常なのだろうか。そんなことがあっていいのだろうか。


「…せい…──奥村先生、どないしはりました?」

勝呂君の声に、はっと我に返れば塾生達がいつの間にか黙り込んでいた僕を心配そうに見つめていた。…いけない、授業中に何をやってるんだ、僕は。取り繕うように軽く咳ばらいをして口を開く。

「……来週ここの範囲までを軽くまとめた小テストを行います」
「げぇっ」
「ほんまですかぁ…」
「小テストだからと勉強を怠る人が出ないように赤点をとった人は補習ということにしましょう」

兄さんと志摩君の苦い叫び声が丁度授業の終わりを示す鐘の音と重なり合った。他の先生方は皆それぞれ出張だったり任務だったりで出払っている為、先生は僕しかいないので今日は僕の授業で塾は終わる。適当に解散の言葉をつけて、授業で使った教本や資料を軽く整頓していると仏頂面の兄さんが近付いて来た。どうせ小テスト実施についての文句を言いに来たんだろう。全く面倒臭い。

わたくし奥村雪男は、兄である奥村燐の自由奔放に生きるその姿が、反吐が出るくらい大嫌いなのであります。