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「…──……──…」


遠くから私の名を呼ぶ声が聞こえる、気がする。


今まで暗い闇の奥底に沈めていた意識が浮上していく感覚。シーツに沈めていた体を揺さ振られる感触が、私の意思とは真逆に脳を覚醒させていく。
いやだ。
本当は、もっと眠っていたい。
昨日──いや、今日だ。今日の四時にようやく彼は解放してくれ、ようやく深い眠りに就いたところだったのに。朝方まで私を放してはくれず、私の後に睡眠をとった彼は、私より早く起きて、私を起こそうとしている。彼には寝不足による疲労という概念を持っていないのかもしれない。だとしたら羨ましいことだ。私はこんなにも疲れているのに。
薄く目を開いて、ぼやけた視界のまま、病室のように白いスーツや壁、天井に視線を動かす。いつもと変わらない部屋が私に「おはよう」と語りかけてくる。「やっと起きたね」という声に背後を振り向けば、寝巻から普段着に着替えた氷室君が穏やかな笑みを滲ませてベッドの端に腰掛けて私を見下ろしていた。小さく「おはよう」と挨拶をすると、「おはよう、お寝坊さん」と言って私の頭を優しく撫でる。氷室君の指先は冷たい。すぐにぼんやりとしてしまう私には、彼の指先は現実に戻る為の良い目覚ましになった。
彼は暫く頭を撫でて、それからするすると下へ下へと手を顔に這わせながら落としていく。それが首筋にまで下りた時、ぴたりと手の動きが止まる。彼の触れている部分には、確か数日前に彼が施した痕が残っている筈だ。その証拠に、ぴりぴりとした感覚が小さな波のようにやってきている。


「今日は何日か分かる?」
「……何日だっけ…?」
「…質問を質問で返すのは良くないよ。今日は十月三十日。オレの生まれた日だよ」
「…氷室君の誕生日?」
「そう」
「……ごめん。何も用意できなかった」


まあ、知っていたところでどうせ私には料理を作るぐらいしか出来ないんだけど。
私の言葉に氷室君は少し目を丸くして、それから笑うと「オレが言わなかっただけだから、謝らなくていいんだよ」と言って額に唇を付ける。


「ねえ、今日は何処かに出かけてみようか。何処か行きたい場所はある?」
「…………氷室君の行きたい所でいいよ。だって今日は氷室君の誕生日なんでしょ」
「うん、でも今日はキミの行きたい場所に行こう。そしてオレはキミの幸せな顔を見て、それをプレゼントとして胸に収めるよ」
「……………」


氷室君の幸せは、私の幸せが彼にとっての「それ」らしい。
………他人の幸せが自分の幸せになるなんて嘘だ。
いつもと変わらない氷室君の笑顔を見て思う。思うだけで、口に出すことはしなかった。


「キミが言ってくれるまで待ってるから」

「…………」



氷室君はいつだって私に嘘を付かない。彼の言葉は全部本当で、嘘も偽りも存在していない。きっと彼は私が行きたい場所を告げるまでじっと待ち続けるだろう。例え、今日という日が終わり、明日がきたとしても。彼はそういう人間だ。私のことになると執着が酷い。私に行きたいところなんてない。戻る場所も、この何もかもが白に染められた家しかない。私にはこの家と氷室辰也という人間しかいないし、それ以外に必要なものなんてない。

あまり使うことがなくなった脳みそに鞭を打ち、何処か彼の納得できる答えを探すことにする。誕生日に行ってもそんなにおかしくない場所なんて、あるだろうか。遠い記憶を掘り出して、一瞬ある光景が頭を過ぎった。

行きたい場所を告げれば、氷室君は目を細めて「いいよ」と言って立ち上がる。どうやら彼の御眼鏡に適う場所らしい。

「とりあえず準備はご飯を食べてから、だな」

そう言って氷室君はその辺にいるような女に負けないくらいきれいな手を、私に差し出した。




***




氷室君の作った朝食を時間をかけて味わい、彼の用意した服装に身を包む。着替え終わって名前を呼ぶと、私の前に現れた氷室君は片手に櫛とリボンの付いた髪留めを持っていた。その深海色をしたリボンはどことなく氷室君を連想させる。「おいで」と手を振る氷室君に吸い寄せられるように、私は彼の元へ進み寄る。

氷室君は私をベッドの上に座らせ、自分は椅子に腰掛けると丁寧で優しげな手つきで私の髪を梳いた。氷室君が手を動かす音しか聞こえないこの家の静かさには、もういつの間にか慣れてしまっていた。人間は慣れてしまう生き物だと言うけれど、本当にそうだと思う。外に出て、前は慣れていた筈の喧騒に慌てないか不安を覚える自分が自分ではないみたいだ。まるで氷室辰也という人間に、新しい私を作り替えられてしまったような感じがする。

ぱちりと髪留めを留めて、氷室君は私のつむじに鼻先をくっつけて「行こうか」と囁いた。

「……遠いの?」
「どうだろうな。でも、そう遠くって程でもないとないよ」


だから心配しないで。

私の手を引きながらそう答えた氷室君は私を安心させるように笑った。




***




彼の言葉を嘘だとは思っていなかったが、本当に、彼の言う通り、遠くとも近くとも判断出来ない場所に、私が行きたいと望んだものがあった。

平日の所為なのか子供は一人もおらず、いるのは私達のような男女の二人組が多い。すれ違う男女は誰も彼もが幸せに満ち溢れた表情で腕を組み、水槽の中を窮屈そうに泳ぐ魚を見ていた。
青く薄暗い館内はとても静かで、閉鎖的だ。予想していたよりも人がいなかった為に、心なしか安心している自分がいる。ゆらゆらと揺れている薄桃色の海月を眺めていれば、後ろから氷室君の声が私の名前を呼んだ。


「一人にしてごめんな」
「…いや、大丈夫。パンフレットあった?」
「ああ、係員の人から貰ったよ。それじゃあ行こうか。どこから見る?」


ぱらりとパンフレットをめくった氷室君は私に見えやすいよう少し背中を丸めてそれを見せてくる。ざっと一瞥したものの、特別目を惹かれるものは見当たらなかった。順々にまわっていこう、と提案すれば、彼は「そうだね」と言ってパンフレットを鞄にしまい込んだ。何の躊躇いもなく私の手を取って歩きだす氷室君に引っ張られるように私も歩き始める。

私が提案した「水族館」は、小学生以来足を運んでいないといった氷室君にお気に召したようだ。「あの魚は色が綺麗だね」と指差し笑う姿は偶然氷室君の隣を通り過ぎた女性が凝視してしまう程で、もしかしたら、今日この水族館に来ていたカップルの一組か二組は破局に追い込まれてしまうのではないかと思った。

一緒に水槽を覗き込み、魚の名前を当てたり、水槽をつついて魚が動き回る様子を見たり、一通り館内を見たところで私達は一番大きな水槽の前の長椅子に腰掛けていた。目の前には大中小様々な魚が泳いでいる。テレビでよく見る程の大きさではないが、館内で見た魚の中では群を抜いて大きいクジラがゆっくりと水中を漂う姿は見ていても飽きなかった。その周りを小さな魚たちが一緒に固まってクジラの傍で泳いでいる。海より何倍も小さく狭いこの海水箱の中では、天敵に襲われることもないだろう。毎日餌に困る心配もない。絶対的な平和と安全が保障されている。

でも、それは魚にとって幸せなことなのか。



「……今日は楽しかったな。キミと歩けて、キミと綺麗なものを共有出来たし、キミを男に見せびらかすことも出来た。最高に幸せで、素敵な誕生日だったよ。今まで過ごしたどの年よりも、オレは幸福感で満ち溢れてるんだ。…ありがとう」
「……うん。私も久しぶりにこういう所来れて、楽しかったよ」
「…本当に?」
「嘘じゃないよ」
「…そっか。それは良かった。出掛けた甲斐があった」



じゃあ、そろそろ帰ろうか。
立ち上がった氷室君の手は、きっと私を離してはくれないだろう。確信はないが、今の彼の手は、やけに冷たい。


「来年も何処かに行ってみようか」
「また何処に行くの?」
「うん。オレの誕生日にこうやって二人でさ、出かけて、一緒に色んなモノを見てまわって……嫌かな」
「…嫌じゃないよ」
「じゃあ、行きたい所、決めておいて。…まあ、時間はいっぱいあるから、ゆっくりな」


ゲートを出る私達の背中に「ありがとうございました」と受付の声が投げられる。外に出れば夕暮れがほとんど白しか映されることのなかった私の目に突き刺さった。今は何時だろう。秋は日が暮れるのが早い所為で時間が分からない。

「氷室君、今何時?」
「……キミは気にしなくていいよ。家に戻ったら、また一日が始まる。一日が始まって、終わる。その事実だけで充分だろ?キミは時間という概念に囚われなくてもいいんだ。前みたいに時間に追われる生活は、キミを苦しめるだけなんだから」
「………」
「──ごめんな。でも、キミの為なんだ」
「……分かってる」
「そうか。…ならいいんだ」


今日見た魚たちの中では、あの館内で生まれ、育った魚が少なからずはいる筈だ。その魚はあの何処までも続く青い海を知らない。知るのはあの広く感じるようで、実際には狭い水槽しか知らない。全くの無知な生き物だ。


「……今度は海を見に行きたい」
「! はは、そうだな。綺麗な、見晴らしの良い所探しておくな」
「…うん」
「それまで、ちゃんと家にいるんだぞ?」
「…うん」


──きっと、その魚は幸せだと思う。知るべきことを知らないままで今の暮らしが出来たなら、私は迷わず学校の楽しさも、友達と放課後遊びに行く楽しさも、全部知らずにあの白い家に足を踏み入れただろう。あの家はいつだって真っ白で、汚いものとは無縁だ。時間に焦ることも、人間の醜い感情をぶつけられることもない。世界から切り離された世界。


「氷室君」
「ん?」
「誕生日おめでとう…って、言ってなかったなって。……おめでとう」
「…ありがとう」

「キミにそう言ってもらえて、オレは幸せだ。幸せ過ぎて、死んでしまうかもな」なんて言って困ったように笑う氷室君の顔は少し赤くて、ただの青年にしか見えない。私を軟禁している人間なんて、誰も信じないし、そう思う人間は一人もいないに違いない。皆外面しか見ていないから、この人間の異常な内面一つすら気付きやしない馬鹿ばかりで。

そして、気付いた時にはもう手遅れだった私も馬鹿の一人で。

「…どうかした?」
「ううん。何でもない。早く帰ろう。お腹すいたし」

今の私の心の奥に眠る本心を知らない氷室だって、あの水槽で泳ぐ無知な魚と同じようなものだ。

そう考えながら私は彼が付けた髪留めにそっと手を触れる。
せめて、今日は彼の生まれた日なのだから、何も出来なかった代わりに彼の好物が並ぶ食卓にしよう。少なくとも、彼は私に平穏を与えてくれた人に違いないのだから。


あいのうた

10/30 Happy Birthday Dear Tatsuya!

企画「クライン・ブルー」様 提出

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