寮で朝食が設けられる時間は午前七時から八時半までと限られている。ちなみに平日だと六時半から八時までと若干早い。紫原は寝起きが悪いので同じ一年であり部屋が隣同士である俺が全力を挙げて起こし、飯を食わせて学校まで連れて行かなければならないので毎日遅刻ぎりぎりの生活を送っている。俺は紫原の保護者ではないと何度もそう主張しているのに皆してその主張を黙殺する所為でなあなあになってしまっていた。まったく、世の中クソだ。 「…………………」 七時半を知らせるアラームを止め、上体を起こす。そしていつもの調子とは程遠い自分の体に違和感を感じた。 少し頭が痛い。 体も少し怠い……。 入学前に母さんが持たせてくれた、救急箱に入っていた体温計を使うと三十六度九分と微妙な結果が出た。微熱気味である。大方シャワーを浴びて碌に乾かすことなく寝てしまった所為だ。自己管理がなっていないと思われるだろうが、昨日ばかりは仕方がない。 ……氷室先輩からの告白で、放心状態だったのだから。 *** ──先輩が、俺を好き? 何を言ってるんだこの人は。「アメリカンジョークですよね」と言うと、氷室先輩は試合の時のような真剣な顔を崩すことなんてせず、首を横に振った。それからゆっくりと、言葉を選ぶように話し始める。 「……最初は、ただの後輩としか思ってなかったんだ」 「………」 「でも、こうやって一人で自主練に取り組む姿とか、話してる内に気付けばお前をそういう目で見てて…」 「………」 「おかしいって思うだろ?オレもそう思う。今のオレは異常だ。どうにかこの異常を治したくて何度かクラスの奴と合コンにも行ったんだ。でもダメだった。どの女子と話してもお前と比較してるオレがいたんだ」 そう言って氷室先輩は苦しげに笑った。その表情を見て、ああ、さっきの暗い表情は、これが原因だったのだ、と理解する。先輩はずっと苦しんでいたのだ。こんなこと、誰かに言えるような問題じゃない。先輩を苦しめている悩みの種が何なのか分かったのは良かったが、まさか俺をそういう対象で見ていたから、なんて誰が想像しただろう。 ──そして、氷室先輩からそんな目で見られている俺は、正直戸惑っていた。憧れの先輩がそっち側の人間だったとか。あんなに完璧なんだから何かとんでもない性癖とか、必死に隠している欠点があるんだろうなとか。そう考えていたのに。男が好きって。しかも俺が好きって。俺は女の子が好きだ。女の子が胸を寄せていたり淫らな姿が載っているいかがわしい雑誌だってベッドの下と音楽雑誌の間に置いてたり挟めていたりしてるわけで。男と付き合うなんて考えたこともなかった。そりゃあ冗談で恋人繋ぎやら頬に軽いキスは経験ありだけど、あくまでもそれは冗談であって、本気なわけがない。俺は女の子が好きなのだ。 黙ったまま何も言わない俺に、氷室先輩はただ一言「ごめんな」と謝ってきた。 「別に苗字と付き合おうなんて考えてないよ。……ただ…何だろうな、この感情を伝えておきたかったのかもしれない」 「……」 「自分勝手で悪いが今のことは全部忘れてくれ」 氷室先輩にどんな言葉をかければいいか分からなかったので、彼の「忘れてくれ」という申し出には少しばかりほっとした。頷く俺に彼は少し安心したかのように、いつもの微笑をこぼす。俺が頷く姿を見て内心どう思っていたかなんて、氷室先輩自身にしか分からない。 それから軽く挨拶を交わして氷室先輩は二年の使う寮へ、俺は一年の使う寮へと戻ったのが昨日の話だ。信じられないが紛れも無い事実である。 …………とりあえず、メシ食いに行かなきゃ。 八時半までに席についていなければメシにありつけることは出来ないので、土曜日だというのに俺は重い体に鞭を打ち、這い出すように布団から出た。適当に着替えてから部屋を出る。食堂に向かう途中、ぴょこぴょこと寝癖のついた髪をそのままにして歩いている健介君の後ろ姿が見えた。 「健介君、おはよ」 「…あ、名前。はよ」 こちらを振り返った健介君は少し眠そうな顔をしながら俺が追いつくまで待っていてくれた。浮かない顔をしているらしい俺を見て彼は「体調悪いのか?」と尋ねてくる。 「…まあ、うん。ちょっと頭痛と…体怠い」 「マジか。練習出れそうか?」 「あー………うん」 「……今日は休んで一日寝てろ。メシならオレが部屋持ってくし」 「……昨日居残りしたからさ、監督に鍵返しにも行かなくちゃならないんだよね」 「まーたそうやって頑張り過ぎるからいけねーんだって。オレが返しとく。休むことも伝えとくから、お前は休め」 「ありがと」 健介君は俺のことを手のかかる弟だと言っていたが、本当にそうだと思う。へこたれればすぐに健介君の所に行く癖は何とかしたい。健介君は来年の春には高校生ではなくなってしまう。つまりこうやって健介君に甘えることは出来なくなるということだ。 「ほら、部屋まで送ってやるから。後でメシ持ってくから待ってろよ」 「………うん」 健介君はわざわざ俺を部屋まで送り、ちゃんと休めだのお前の面倒見ないと母さんに怒られるだのぐちぐちと軽いお説教をかますと鍵を持って行ってしまった。俺はもう一度寝巻に着替え直し、ベッドに潜り込む。 体が怠いのもそうだが、何よりも氷室先輩の顔を見るのが少し気まずかった。だから、ちょっとばかりこの体調不良に感謝だ。練習もあるし本当はよくないけど。 先輩は「忘れてくれ」と言ったけど、本当に忘れていいんだろうか。明日からまた顔を合わせることになって、先輩の気持ちを知りながらも今まで通り、が出来るほど俺は器用じゃない。思ったことはすぐに顔に出てしまうし、感情を隠すのが下手くそなのは自覚している。そんな俺が先輩と今まで通りとか、はっきり言おう。無理だ。絶対ぎくしゃくする。こういう時どうすればいいんだろう。分からない。健介君に相談してみるか…と、考えて瞬時にその案をぶった切る。こんなこと相談出来ないだろ。氷室先輩は男が好きだなんて、言えない。言えるわけがない。先輩の立場がなくなるかもしれないし、何より奇異な目で見られる先輩を見るのが嫌だ。とりあえず身近で、氷室先輩を知る人に相談なんて無理だ。 そう思って脳裏に浮かび上がったのはよく冷静に物事を見極め、人の心を読むことに長けた人物だ。 あいつなら同性愛者にもそんな偏見はなさそうだし、何より氷室先輩を知らない。そして俺のことを俺以上に理解している。 ベッドに無造作に置かれていた携帯を手に取って、電話帳を開く。こっちに来てから一度も連絡してないくせに、連絡してきたと思えば重い相談を持ち掛けてくるなんて、「ボクを呈のいい相談役だと思ってますよね?」とか言われちゃいそうだけど…。でも現時点における俺の最後の砦はこいつしかいないのだ。 通話は頭に響きそうなのと、もしかしたらあいつも部活かもしれないという理由で、とりあえずメールを送ってみることにした。 軽い挨拶と、誠凛での学校生活はどうかという質問と、相談したい旨を伝える軽い文章をつくり、ぱっと送信する。 あいつなら…テツヤなら良いアドバイスをくれるだろう…。 メール受信音が響くまでちょっと目を閉じておこう。そんな軽い気持ちで目を瞑る。 だが、思いの外疲労が溜まっていたらしく、その十分後に携帯が鳴ったことも、健介君が朝食を届けに来たことも気付かずに、俺は夕方まで眠り込んでしまったのだった。 ×
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