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氷室→主人公









氷室先輩は男の俺から見ても完璧で、人として素晴らしい人間だ。

まずは容姿。どこか哀愁の秘められた流し目と、神話に出てくる騎士のような──どんな女の子もたちまち虜にしてしまいそうな泣き黒子。背は俺よりほんの少し低いけど、一般的には高い。
そして性格。誰に対してもその優しい微笑は崩さず、温厚な性格で。頭も良い。帰国子女で英語なんて英語教師よりも流暢で、発音の正しいそれを話す。隣の席の女子が「あんな穏やかで隣にいてもマイナスイオンが漂っている人も早々いないよね」と他の女子に喋っていたっけ。
確かに穏やかではあるけど、それはバスケ以外の時だけだ。あの人はバスケのことになると、とても熱くなる。普段のあの優しい笑顔はどこに行ったんですかって訊きたくなるくらいに怖い顔をして、真剣に、ボールを追いかけて。それだけバスケが好きってことなんだろうけど。部活をやっている時の先輩もかっこいいけど、少し怖い。でもちゃんと仲間の気配りを忘れない辺りは氷室先輩らしくて、俺は好きだ。
移動教室の時に時々先輩を見かけることがあるけど、毎回女子に囲まれていることが多い。これだけスペックが高いのだ。モテるのは当然のことだろう。つまり、より取り見取りなのだ。自分の好みの女の子を選び放題。何をせずとも女子は寄ってくる。氷室先輩は男の敵である。それでも同性の奴らに目の敵にされないのは、彼の人柄がいちゃもんをつけるにはあまりにも素晴らしいからだ。もし氷室先輩が鼻に掛けるような性格であったなら、多分………いや、考えないでおこう。

まあ、そんなわけで、氷室先輩は大変おモテになるわけで。彼女の一人や二人いるだろうと思うだろうが、驚くべきことに、氷室先輩に彼女はいない。それどころか彼女いない歴=年齢なんだそうだ。それを知った瞬間俺と健介君は「いや、嘘でしょう(つくなよ)」と同時にツッコミを入れたのだが、それに対して氷室先輩は少し困った顔で「本当だよ」と一言だけ言うと俺達の前から逃げるように練習に行ってしまった。どうやらマジのようだった。でもいつもの先輩を見るにそんなに女と遊ぶようには見えないし、何て言うか、きっと氷室先輩は一途で、それで、その先輩が一途になるような女の子と出会っていないのだと。そう俺は推測した。氷室先輩は一度付き合いだすとその身を尽くしそうだし。尽くし過ぎて重いと思われて終わってしまうタイプだ………多分。






「今日も居残りかい?」
「……そういう先輩も」
「明日は休みだし、あと少しだけいいかと思ってね。…はい、これ。…ポカリでも大丈夫だった?」
「えっ…!…うわ、わざわざすいません…」
「苗字は頑張ってるからね。ご褒美だよ」


監督に鍵を預かって黙々とシュート練習を行っていたところに現れたのは氷室先輩だった。先程までの練習の名残である汗を額や頬から垂らしながらにこりと俺に笑いかける姿は、きっと女子が見たら卒倒ものだろう。俺があんなに汗まみれで笑っても女子は引くだけだ。ああこれだからイケメンって奴は憎たらしいことこの上ない。


……まあイケメンなのはもう置いておくことにして。


俺は先輩から受け取ったポカリをまじまじと見つめた。冷えているお陰で表面からぽつぽつと水が浮き出ている。

体育館から自販機は結構距離あった筈だ。わざわざ俺の為に買ってきてくれたのか。ドリンクはマネジが作った分がまだ少し残っていたのに。先輩の好意を無下にするわけにもいかず、マネジのドリンクは帰る間際に一気に片付けてしまおうと決心し、先輩からもらったポカリを口に含む。冷たいそれが喉を通り腹の底に溜まっていく感覚を感じながら唇を拭う。やっぱり動いた後の冷たいものは生き返る。「美味しいです」と礼を言えば「良かった」と言って微笑みかけられる。そんな先輩は、自分の分は……買ってないみたいだ。


「先輩も飲みませんか」
「……え」
「ほら、元はといえば先輩が買ってくれた物だし、先輩何も買ってないじゃないですか。俺だけ飲んでるっていうのは何だか…」
「……そうか。でもいいのか?オレと、そんな…」
「……ああ、回し飲みとか駄目な感じですか?」
「…え、いや…苗字は気にしたりとかはしないのか?」
「クラスの奴らとやってますし気にしないですけど」
「なら頂こう、かな」
「どうぞ」



何故か慎重に、そろそろと静かに近付いてきた氷室先輩にボトルを渡す。先輩はどこか緊張した面持ちでボトルを見つめると、ゆっくりボトルに唇を触れさせて、こくりと一度喉を鳴らしてすぐにボトルから口を離した。ほんの一瞬のことで、本当に飲んだのかよく分からない。喉が動いたから飲んだんだろうけど。え、そんなに俺と間接キスするの嫌だったのか?まあ野郎とするよりは女子とする方がいいに決まってる。でも、それにしたってこの拒否っぷりは少し傷付くな。
顔を俯かせて俺にボトルを渡す氷室先輩は、いつもの氷室先輩と少し違った。


「先輩…その、嫌だったなら無理に飲まなくても良かったのに」
「っ! それは違う!」
「……そっすか」
「わ、悪い。回し飲みとかほとんどしたことなくてね。緊張したというか…」
「アメリカでもしてなかったんですか?」
「ああ……」


恥ずかしいのか俺に背を向けてさっさと練習に入ってしまった先輩の新しい一面を見て、何だか意外だなと思った。回し飲みとかすげー慣れてる気してたんだけど。クラスの女子が知ったら何て言うかな。可愛いって言うんだろうな。
このまま氷室先輩をからかうことに専念するのもいいかもしれないが、俺はバスケの練習の為に監督から鍵を借りているのだ。時間を無駄にしている場合じゃない。もう一度ポカリを喉に流し込んで俺も練習に戻ることにする。あと百本決めて、監督と約束した時間が迫っていたなら帰ろう。そう決意してコートの隅に転がっていたボールを手に取った。






***






「苗字、そろそろ引き上げないか?」
「あとちょっと……これ一本入れたら………」


深呼吸を一つ、それから軽く息を止めて、いつも通りにボールを高く放り投げる。そうすればボールはリングの中に入り、微かにネットを揺らしながら下に落ちて転がった。それを見た氷室先輩は「流石だね」と言う。


「試合で入れば文句なしなんですけどね…」
「苗字はすぐに上がっちゃうもんな」
「どうしたら上がり症って治るんすかね」


他愛のない話をしながらボールの後片付けをして、汗拭きタオルやボトル、先輩から貰ったポカリを手に体育館を出る。鍵は明日の朝に返してくれれば良いと言っていたので、お言葉に甘えることにした。

一つ上で先輩だというのに、氷室先輩と話すのは堅苦しくなくて楽だ。健介君も先輩だけど、小学生の時から付き合いがある為にほとんど同輩と話しているようなもので、これといって緊張感はない。流石に他の先輩がいる時はちゃんと先輩呼びと敬語で話すけど。

更衣室に入って、引き続きまた下らない話に花を咲かせつつ着替えてから、玄関に向かうことにする。明日は昼から夕方まで部活だ。朝に鍵を返したら二度寝出来るかな。そんなことを考えながらローファーに履き替え、先輩のいる二年の靴箱がある所に行く。先輩はまだ靴に履き替えておらず、何やら何かを鞄に押し込んでいた。「先輩」と呼べば、先輩はびくりと肩を震わせて俺を振り返る。


「……それ、ラブレターですか?」
「っ…!…ああ、そうかもしれないね」
「本当モテますね」
「そうかな」
「そうですよ」


俺もラブレター貰ってみてーなぁ。
そう呟けば、先輩は少し笑いながら「じゃあ俺が書こうか」と言ってくる。先輩にしてはお茶目なジョークだ。珍しい。

「モテモテな先輩からのラブレターとか俺女子に何て言われるか分かったもんじゃないですよ」
「……『──苗字へ。キミのいつも頑張っている姿にオレも励まされています。練習に手を抜かずに全力で取り組む、そんなキミが好きです。氷室より』」
「そういうのは女子に言ってください」
「ははは」

氷室先輩はにこにこ笑っている。うーん、いい人だ。善人そのもので、健介君よりよっぽど後輩想いだ。こんなに完璧なのに、どうして。



「彼女つくらないんですか?」

「……え?」
「いや、だって、先輩すごいじゃないですか。かっこいいし、優しいし、皆のこと考えて。どっから見ても完璧で。でも浮いた話とかあっても全部断るし…」
「……バスケに集中したいしね。部活中応援に来られても迷惑だろ?」
「はぁ」
「…それに…」
「……それに?」


「……………」



氷室先輩はその話の続きをしようと口を開けたままだったが、暫くして口を閉じると遠くに視線をやる。そして、それっきり何も言わなかった。
もしかしたら氷室先輩には恋愛に対して誰にも言えないようなトラウマを抱えているのかもしれないんじゃないか?と、そんな考えが頭を過ぎる。

もしそうだとしたら俺なんかが聞いちゃいけない、よな……。俺と氷室先輩は会って間もないし、こうやって一緒に寮に戻ったりはするけれど、ただの先輩後輩という間柄で、氷室先輩の秘密を聞けるような立場ではない。

そのまま歩いた後、寮が見えてきた。一年の寮は二、三年の寮よりも少し歩いた所にある。此処で先輩とはお別れだ。無言のまま別れるというのも気まずいので彼の名前を呼ぶ。すると暗い表情をした先輩が顔を上げた。

「……なんか、すいません。言いたくないこと言わせようとしちゃって…」
「いや……いいんだ」
「じゃあ俺はこれで──」
「…あの、苗字」
「何でしょう」


先輩は何かに苦しんでいるようだった。


「オレが、」

「はい」


眉間に皺を寄せ、その苦しみを吐き出すように、俺に言う。


「もしオレが、お前を……苗字を好きだって、言ったら…引くか?」

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