あなた | ナノ
「えっ、ダイゴさんシンオウ行っちゃったんすか?!」
「あー、うん。定住」
「へー、定住…定住!?はっ?石探しじゃねーの!?あのダイゴさんが!?」
「…驚くのも無理はないよねぇ…私もびっくりした」


ユウキくんは勢い余ってブラッシング用として使っていたブラシを、トレーナーになったばかりの時に初めて捕まえたというマッスグマの綺麗な毛並みに強く食い込ませた。マッスグマは怒ったように唸り、ユウキくんのブラシを持った方の手に噛み付く。ブラシは静かに落下していき、最後にごとりと重い音を立てて床とご対面を果たしていた。傷とかついてなきゃいいけど。
ダイゴ経由で知り合ったユウキくんが突然家を訪ねてくることは今に始まったことではない。インターホンの音と共に爽快と現れるのには良いのか悪いのか既に慣れてしまっているので今回フエン煎餅を手土産にやって来たユウキくんに対し、私は彼を何の躊躇も無く家に招き入れたのだった。人間慣れって怖い。

「いててて、痛ぇっ、ごめん!ごめんって!」
「…もうほとんど帰ってこないかもね」
「…寂しくなんなぁ…」

腕に噛み付き、恨みを果たして気が済んだのかマッスグマはユウキくんの元を離れて私に近寄ると膝に擦り寄ってきた。
ブラシのせいで痛くしたであろう背中を優しく撫でるとマッスグマはその手を優しく舐めてくれる。私に懐いてくれているのかこのマッスグマはよく私に甘えている表情を見せてくれるのだ。(その度にしょんぼりと寂しそうな表情を浮かべるユウキくんを見て彼─無論マッスグマのことだ─が、変に喜んでいることを知っているのは私だけの秘密だ。)

「…いってぇ…痕付いた…チャンピオンとしての座も降りてたから此処に留まる理由なんてほとんどなくなっちゃってたしなぁ…」
「こっちに来ることがあるとしたら父親に呼ばれた時位じゃない?」

まぁ、その父親という人はダイゴ曰く放任主義らしいので滅多に呼び出すことはないだろう。ましてや北から南は、とても遠い。

冒頭でユウキくんが叫んだ通り、ダイゴはシンオウへと行ってしまった。
喫茶店で話をしてから一週間経つか経たない内にシンオウで住むことが決まったらしかった。らしかった、というのはダイゴの数少ない友人の一人であるミクリさんから話を聞いたからだ。私は彼の口から何も聞くことはなかった。ミクリさんは「きっとなまえさんと別れるのが悲しくて言い出せなかったんだよ」なんて、同情が含まれるのが丸分かりのフォローをくれた。話によるとこれからダイゴと一生を共に過ごす女性はシンオウ出身だったそうなのでシンオウに住むことにしたそうだ。あそこはテンガン山という大きな山があるし、他にも鋼鉄山など石が発掘される名所が沢山ある。ダイゴにとっては楽園と言っても過言ではない土地だろう。

ちなみに、私の誕生日は何をどうするということもなくただただ普通に過ぎていき、祝ってくれると言ってくれていたダイゴからも何の連絡はなく。そんなこんなで一ヶ月と一週間経つ。特に悲しみや怒りなんて理不尽な感情は沸かず、ただ「きっと忘れたのだろう」とだけ思った。私にとってダイゴは特別な存在であり、ダイゴにとって私とはある程度理解のあった、ただの他人に過ぎなかっただろうから。

気が付くと奴のことしか考えられない自分に嫌気が差した。

「あれ?シンオウって言ったらなまえさんもシンオウ出身でしたよね?」
「…まぁ、うん。今はこっちにいるけどね」
「帰ったりとかはしてるんですか?」
「…手紙がきた時位かな」
「へぇー手紙ってアナログな感じがなんかいいっすね」
「今はメールの時代だしね」
「ダイゴさんから連絡は?」
「え?何も。このことだってミクリさんから私に伝えるようにって」
「へっ?なまえさんはダイゴさんと付き合ってたんじゃないんですか?」
「んなわけ無いよ。あいつはただの友達。……あぁ、言い忘れてたけど、シンオウに定住っていうのは、婚約した人と一緒に暮らすからだよ」
「ちょっ…えっ…婚約?一気に情報が流れ込んできてオレ思考回路はショート寸前。大爆発起こしそうなんでちょい整理させて下さい」
「どうぞどうぞ。あ、そういえば飲み物、おいしい水とサイコソーダどっちがいい?」
「サイコソーダで」

しっかしなぁ、とユウキくんはソファに勢いよく座り、両手の人差し指をぐりぐりとこめかみに突き立てながら私を見た。マッスグマは、いつの間にか私の手元から離れて今日も相変わらず絶好調に惰眠を貪り続けているパッチールの隣で丸くなっていた。
何気なく窓を見ると、空はほんのりと橙に染まり始めていて寂しい雰囲気が漂って、少し泣きたい気持ちになる。こういうのを哀愁が漂うっていうんだろうか。

「オレ、ずっとダイゴさんとなまえさんは付き合ってると思ってました」
「…勘違いだよ」
「だって、なまえさんはダイゴさんのこと好きだったでしょ」
「………」
「ダイゴさんも…いつもなまえさんの隣で嬉しそうに笑ってたから…こういう時ってどうしたらいいかわかんねえ。何かすんません」
「いやいや、ユウキくんの謝る理由なんてないよ…別にダイゴのことはもういいんだ。…まぁ誕生日祝ってくれるって言ったまんま何も言わないでいなくなっちゃったことはちょっと寂しかったけどね」
「…そっすか」

会話が途絶える。折角ユウキくんが遊びに来てくれたというのに重苦しい雰囲気になってしまった。ああ、やだな。こういうの。サイコソーダを取りに行こうと立ち上がれば、ユウキくんは私の名を呼ぶ。その目は彼の気に入る真っ直ぐとした目だった。


「来ますよ」
「え?何が」
「え、いやあのほら、ダイゴさん…誕生日の…お祝いにさ…あの、」
「ユウキくん」
「はいっ?」
「ありがと」

ユウキくんの言いたいことが飲み込めたところで、何だか私が誕生日に酷くこだわっているようで(実際自分ではそう思ってはいないが第三者から見るとそう思われるかもしれない。)少し恥ずかしくなった。少し赤く縮こまっているユウキくんをそのままにキッチンへと足を進める。
大の大人が子供に気を使わせてしまった。何だか自分が酷くちっぽけに感じる。情けない。ユウキくんの言葉が分かったところで出てきた一粒の涙は冷蔵庫からサイコソーダを取り出した時に静かに服に零れて滲んだ。


あなたへ別れの言葉をいえないかわりに