羊飼いの憂鬱-Memo | ナノ

▼ 

…そういえばこの時期にトマト鍋してたな。
真っ赤に染まる鍋のことを思い浮かべていれば、遠くから叫ぶ男の声が聞こえた。スーパーの帰りであろう買物袋を下げたおばさんや親子連れの人達が、何事かと声の聞こえる方向に顔を向ける中、同じく私も何だろうと後ろを振り返る。
そして振り返ったことを後悔した。


「主っ!主ーっ!」


誰もが羨む長身に、服の上からでも分かる鍛え抜かれた肉体。艶のある黒髪に、見るからに甘そうな琥珀色の瞳──を隠すかのようにかけられた薄ピンクの、遊び人やチャラ男が好みそうな眼鏡。色気を更に引き出すかのように付いている右目の下の泣き黒子。

通りを歩けば女の子は当然の如く見とれてしまう顔を持った男は、私と目が合うとぶんぶん手を振った。その顔は季節外れだが向日葵みたいな笑顔を浮かべていて、とても眩しい。私の近くにいた親子が「かっこいい」と感嘆の声を上げる。


「ねー、かっこいいねぇ。映画俳優さんかなー?」
「“あるじ”ってよんでたけど、あるじってなぁに?」
「………なんだろうねぇ?」


親子の会話を聞きながら、私は無我の境地に降り立ったかのような感覚に陥る。


人前で「主」と呼ぶのはやめろと何度言ったら分かるんだ。

金髪赤目と同居してるだけでもアパート付近に住んでる人から珍しい目で見られているのに、重ねて流し目美丈夫も転がり込んでからは更に視線が痛くなった。

主だの何だのと呼ばれているのが知られたら、イケメン侍らせて女王様気分に浸って怪しい遊びをしている女だと誤解が生じてしまう。

主にイケメン大好き!噂大好き!な、ママ友集団プラスおばさま方に。




どうしよう。激しく他人のフリをして去りたい。スーパーに入りたい。まだオディナさんが私の元に辿り着くまでそこそこ距離があるし、彼は一般人の目もあって驚異的なサーヴァントパワーを発揮することはない筈だ。瞬歩みたいな移動は出来ない。私とオディナさんの距離と、私とスーパーの距離を比べるなら後者の方が距離は短い。

くるりと踵を返し──後ろから「主?!」と聞こえたが──早足でスーパーの中へと入り──後ろから「主!お待ちを!」と聞こえたが──買い物カゴを手にする。同時に入店したお姉さんが、ちらちらと私とオディナさんの方を見比べていた。完璧にオディナさんが私のことを呼んでいるとばれている。死にたい。
が、死ねない。何とも不便な体になってしまったものである。
×