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 わたしはこのまま消えるのだろうか。ノイズは纏まらない思考能力をかき集め、僅かに思案した。微細な粒に分解された自身はふわりと宙を漂ってゆるく輝いている。風に飛ばされ、どうやら荒野の真ん中であるらしい。砂塵から自己を取り出して集めてみたが、なんとも収まりが悪く、模った傍から崩壊していく。それでも何とか固めてみたが、そもそも憎悪から成る我が身である。それらが総て瞬く希望に昇華されてしまっては、形を保てないのも道理だろう。輪郭を持ったかと思えばぐにゃりと融ける思考で、しかし不思議とそれを怨む気にはならなかった。鈍色の悲しみと絶望のみが己の糧であり血肉であったというのに、一体これはどうしたことだろう。そう戯れに自問してみたところで、答えは端から見付かっている。伝説を継いだ者達。太古の昔から人々の感情に寄り添い生きながらえている自分に比べ、希望を頭上に戴いた四人の少女はあまりに幼く非力であり、向けられた刃は取るに足らない脆さであった。そんなものがわたしに届くとでも思っているのか。けれどもそう嘲笑し数度叩き潰してみたところで、彼女達は決して折れることなく、あまつさえ立ち上がって見せた。何度も。何度も。何度でも。仕舞いにはそれに救われてしまうのだから世話がない。ノイズはほうと息を吐いた。彼女達は皆良い目をしていた。ひたむきに真っ直ぐで曇りのない、強い意志を秘めた瞳だ。自他の境界が曖昧なこの状態になって尚、ありありと思い出すことができる。どこまでも気高く澄んだ空色の、春に萌ゆる若草の、秋に稔る金色の、暖と安寧をもたらす灯火の、誰もが幸福の標となってきた色彩を宿していた。砕け散る硝子球の美しさではない。地に根を張って生命溢れる、苦しみを乗り越え進んで往ける逞しさ。その四対の瞳に射抜かれたことを、この心臓を縫い止めたのが彼女達であったことを、らしくもないが、誇りに思う。
 さて――。ノイズはくるくると思索を弄び過去未来へ思いを馳せた。いつしか生まれた自分が見届けたもの、壊したもの、得ようとしたもの。次々と展開していく全ては暇を潰す以上の意味を持っていなかった。そうすることで何が変わる訳でも無く、行動するには時間が足りない。後悔も懺悔もなかった。ただ解ける身の内に刻み付けておきたいのかもしれない。終わりの時がひたりと近付いて来るのをノイズは痛切に感じ取っていた。
 わたしはこのまま消えるのだろうな。何せ元々が塵芥の塊だ。積もり積もったそれらが全て還元されてしまえば、この自我の行方など。それを考えたとき、辛うじて保たれているノイズという存在に一抹宿った感情は寂しさだった。理屈も何もない、どうにもならぬ。欲を言えばもう少しだけ、悲しみさえ喜びに変えてしまう強く美しい人間達を、幾多の世界を見ていたかった。だがそれも考えたところで詮なきこと。わたしは消えるのか、それとも万に一つの確率で遥か遠い場所へ往くのだろうか。いずれにせよじきにわかるのだから、今更そう急かずとも良いか。囁くような終焉の予感でもってノイズは思考を放棄した。そうしてそのまましゃらしゃらと渦巻く光に身を任せるつもりで目を閉じた、のだが。

「ノイズ様ノイズ様ー!ノイズ様ってばァー!!」
 鼓膜をつんざくこの声は。ノイズはこめかみにうっすらと青筋を立てながら閉じた瞳を再び開いた。見遣れば案の定、八割方粒子となって崩れた躯の辺りをぶんぶんと飛び回る薄桃色の光がある。そういえばこいつの存在をすっかり忘れていた。相変わらず騒がしい、それで一度は食われたというのにどうやら欠片も学習していないようだ。なんとも苦々しい気分になる。
「五月蝿い奴め、お前はハエか」
「あーッやっと気付いてくれましたねノイズ様ー!もしかして今無視しようとしませんでしたかノイズ様ー!?虫だけに!ぷぷぷ」
「くだらん」
ノイズは心労を感じて嘆息した。今の今までが静かだっただけに余計甲高い声が耳に刺さる。まさか肉体から飛び出してまで追い掛けてくるとは、まったく物好きな奴と呆れる他ない。つまらん冗談を言うためでもあるまいに、いやしかしこの阿呆なら…と、有り得なくもなさそうな可能性に思い至って戦慄した。流石にそこまで重症ではないと信じているが。
「何をしに来た。去れ」
「去りませんよノイズ様!ていうか急にいなくならないで下さいよノイズ様ァ、探しましたよもォー!」
「だから何をしに来た、お前は元々ファルセットの人格の一部だろう。さっさと身体に戻れ」
「だから戻りませんってば」
心臓程の大きさのそれは時々金粉と混じり合いながら、すいとノイズの耳元までやって来る。光の粒子は吹雪のように乱舞し、今や視界はやわやわとした光球の桃色と黄金色ばかりに埋め尽くされていた。
「……あなたに感謝しています」
幾分調子の落ち着いたファルセットの声に、ノイズは心持ち怪訝な顔をした。頬から拳三つ分の距離にあるそれを横目に確認したところで、恨みさえすれ、感謝される筋合いなぞとんと見当が付かない。それは散々っぱら利用され最後には取り込まれた男の告げる台詞では到底ないだろう。ファルセットはノイズの不可解を読み取って言葉を重ねた。
「ご存知の通り、わたくしはファルセットという個に内在する人格の一つです。おそらく顕現している人格は存在すら感知していなかったでしょうが、それでもわたくしは奴の深層心理で生まれました。それを表まで引き上げて下さったのは、ノイズ様。あなたなんです」
「……何か勘違いをしているようだが」
ノイズはファルセットを制して言を紡いだ。
「わたしは親切でそうしたのではない。単に他が使えぬ駒ばかりで、たまたま都合が良かったから利用したまでのこと」
「勿論存じております。けれどそれで良いのです」
お門違いも甚だしい、そう告げたつもりであったのに、ファルセットはそれこそと言う。真意を掴み損ねたノイズは片目を眇め、しかし吹けば飛ぶような矮小な光はその威圧にも臆さなかった。
「生まれ落ちた瞬間からずっと、この生は望んでも望まれてもいませんでした。抑圧された奴の感情の掃け口として、奴が不要と判断した汚いモノが堆積して、いわばわたくしは偶然の産物だったのです。生み出した本人にすら認識されることなく、誰にも顧みられないで、わたくしがこうであるというのに、楽しげに笑う奴を見るのが苦痛でした。意のままに身体を操ってみたかった。目で物を見て耳で聞く、嗅覚も味覚も触覚も、奴を通してではなくて、直接感じてみたかった。何よりも認めて欲しかった。わたくしが――おれが、確かにここにいることを」
ファルセットは己の存在を誇示するように一つ円を描いた。釣られて舞い上がった金粉は外界を遮断し、世界にたった二人きりの錯覚を起こさせる。
「そんな自分を初めて見付けて下さったのは、ノイズ様。他の誰でもないあなたでした。最初は都合よい夢かとも思いましたが、語りかけられる声は止まず、そして一時とはいえおれに肉体の主導権までもを、それが一体どれほど嬉しかったことか!」
搾り出すような叫びは既に崩れたノイズの心臓を揺り動かした。一際大きく脈打ったそれこそが、あるいは心というものだったのかもしれない。その痛みを知っている。苦しさも悲しさも悔しさも、だからこそ、今ならばこそわかるのだ。差し延べられた手がどれだけの救いをもたらすか。そのために自己を捨て去っても構わないと思えるほどに。
「……これから遠くへ往かれるのですね」
問い掛けでも確認でもない小さなそれは独り言の類いとも取れた。再び瞼を下ろした後には肯定も否定もなく、しかし沈黙は何よりも雄弁である。ファルセットは形ない口の端を僅かばかり持ち上げた。
「ご命令はいりません。この不肖ファルセット、何処までもノイズ様にお供いたしましょう」

 ああ本当に、誰も彼も寂しがりばかりだ。初めからひとりきりなら傷付かないで済んだのに、それでも人は群れたがる。いつかの別れが心を千々に引き裂くとわかっていても、苦しみを分け合い、喜びを分かち合おうと足掻くのだ。お前も、わたしも。三度開いた瞳に映ったのは、片膝を突いて胸に手を当て、頭を垂れる男の幻だった。今更何を迷うことがあろうか。ノイズは消失した喉の奥で低く笑った。光の奔流はいよいよ勢いを増し、何故だかこの上なく満足していた。
「ファルセット」
「はい」
「……往くぞ」
「はい、ノイズ様!」
 羽ばたく翼なぞ無くて結構。二人ならこのまま何処へだって往けるだろう。


 一陣の風が去った後、荒れ野には穏やかな陽光が降り注いでいた。



ハロー、グッドバイ
2012.01.27




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