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※現代





「夏は嫌いだ。」
 開口一番、仙蔵は俺の顔を見るなりそう言った。当の本人は我が物顔で畳に寝っ転がり、だらしなく寛いでいる。自宅かと突っ込みたくなるだらけ具合だが、生憎ここは仙蔵の住む高級なマンションの一室ではない。いつの間にか勝手に作った合鍵で勝手に入って来るようになった、正真正銘俺の部屋である。

「暑いし、じめじめと湿気ているし、汗はかくし、服が張り付いて気持ち悪い。お前は冬に見ると不景気で寒々しいくせに、夏にはむさくて暑苦しい面構えをしていて不愉快だ。」
「ほっとけ。」
 あと蝉が煩い、と投げやりに言った仙蔵は確かにいつもよりぐったりしている。生白い能面のような額に墨色の前髪が張り付いていた。涼しげな面持ちで飄々としているこいつも汗をかくのかと思うと、妙な心地がしないでもない。毎年だ。
 自分のために適当に選んだガラスコップに氷と水をぶち込んで、一息つこうと畳に胡座をかくと、一口飲んだ端からそれを奪われてしまった。横から伸びてきた腕はさながら獲物を狩る蛇のごときしなやかさで、ぼけっとしているうちに水道水は自分のものでない喉を滑り落ちていく。僅かに零れた水滴が、持ち上がった顎の先から忙しなく上下する喉仏をつたっているのを目で追っていると、仙蔵は勢いよくガラスコップを振り下ろした。たんっ、という音と共にちゃぶ台に着地したそれの中身は、一瞬で角のとれた氷のみになっている。
「よし、復活。」
「おいお前勝手に飲むなよ…。」
「知らん。」
 腹筋の力で起き上がった仙蔵は腕を組んで踏ん反り返った。後ろに背もたれもないのに器用な奴である。相変わらず汗はかいているが、直前までへばっていたとは思えない回復っぷりだ。干からびたスポンジに水をかける様が脳裏をよぎった。

「で、花火は買ってあるだろうな?」
 唐突に振られた話題に、壁にかけてあるカレンダーを横目に見て、ああもうそんな時期かと思う。例年のこととしても、やはり堂々たる不法侵入を認める理由にはならないはずだが、それでもアポなしで突撃してくるこいつに、人間慣れが肝心だと痛感した。時と場所は変わるにしても、俺達はもう随分長いことそうしている。
「一応あるがお前去年のやつから使えよ。線香花火ばっかり残しやがって。」
「あれは好かん。派手さがない。」
 また今年も無駄な探究心を発揮して危険な遊び方をするのかと思うと胃が縮む。こいつは過去に鼠花火がしょぼいと文句を言い、火のついたそれを俺にぶつけてきた前科持ちだ。当時の俺は火傷こそしなかったものの、服が焼けて穴が空いた。だというのに反省の色もなくげらげら笑う仙蔵に、俺は怒りを通り越して脱力した記憶がある。なんというか、もうこいつ駄目だ。あとできっちり叱りはしたが、聞いていたのかすら曖昧である。花火という名の火薬を手にした途端にテンションの跳ね上がる仙蔵を俺はやや心配している。こいついつかうっかりで家燃やすんじゃねぇか、という全くいらん心配で、俺の体力は削れていく一方だ。
 出した覚えのない団扇が床に放ってあったので、扇風機のコンセントを挿しに行くのが面倒になった俺はとりあえず自分を扇いでみる。客人とも呼べぬ客人が使っていたのだろう。畳にちゃぶ台がデフォルトの部屋にエアコンなんて高級なものは存在しない。仙蔵は文句を言うが、なんだかんだで奴も好き好んで入り浸っているのだ。当分あの白い箱の世話になることはなさそうだった。

「おいバケツは何処だ、いつものところに無いぞ。」
「あ?玄関辺りにあんだろ。」
「おお、あったあった。」
「探してから聞けよ。」
「ふん。」
 遠慮なく押し入れや玄関先の靴箱を漁っていた仙蔵はささやかな俺の抗議を鼻で流して、左手にブリキのバケツ、右手に安っぽい花火の束を握り締めて戻って来た。そして仁王立ち。服装に気を遣うこいつの今の格好は、常ならず俺から見ても相当ダサい。力いっぱい、海!という漢字のプリントが施された白いTシャツと、これまたやる気の感じられない膝丈のズボンだった。日常においてズボンと呼ぶと一々ゴミ屑を見るような目で『パンツと呼べ』と訂正する仙蔵だが、これに関してはズボンという呼び名が正しい。こいつの後輩やらファンやらが見たら悲鳴を上げそうだ。
「ところでいつまでそうしているつもりだ?私の準備はとっくに終わってあとはお前待ちだ、文次郎。」
 偉そうに、物理的にも精神的にも見下されていても今更特に怒りは沸かない。それこそ今更だし、恥も外聞もかなぐり捨てたその格好が多かれ少なかれ貢献しているというのもあるが、あんまりにも仙蔵が楽しげにしているものだから、引きずられて俺まで浮足立ってきてしまった。勘付かれれば何を言われるか、大体見当はつくが、にしても堪ったものではないので、冷静な自分を引っ張り出してそれを抑える。
「バカタレ。外見ろよ、まだ明るいから花火は無理だな。」
「出来ないことはない。」
「ちっとは我慢しろって、今やったって勿体ねぇだけだろ。」
 立ち上がって、台所と呼ぶにも粗末な流し台に向かった。後ろでわかりやすく拗ねる仙蔵に口角を持ち上げながら、冷蔵庫を物色する。付け合わせは胡瓜とハムと卵でいいだろう。めんつゆとポン酢の瓶に挟まれている、よく冷えたラムネはあとで出してやるとして。
「飯食ってから行くぞ。」
「素麺か?」
「おう。」
「ふむ、仕方ないからそれで手を打ってやろう。私は何をすればいい。」
「胡瓜洗って切ってくれ。俺は茹でる。」
 あっさり機嫌を戻して両手の物を放り出した仙蔵に、胡瓜を手渡しながらまな板を出す。カナカナと遠くで鳴き出したのは蜩だ。開け放した網戸から吹き込んだ風には涼しいものが混じり始めている。夏の日は長いがそれも徐々に短くなっていて、群青に染まりつつある東の空に、辺りが闇に包まれるのも時間の問題だろう。幼い頃、引きずり込まれてしまいそうだと恐れた暗がりにもいつしか恐怖はなくなって、今はただ得も言われぬ切なさと、ほんの微かな懐かしさが募るばかりだ。
 私は暑いのが嫌いだが、とこちらを見ない仙蔵は包丁を洗いながら独り言のような口ぶりで続けた。

「まあ、お前と過ごす夏は悪くない。」

 俺もだ、と答えた音は自分でも驚くほど柔らかで、生涯の友の満足そうな溜め息とともに終わりかけの夏空へ溶けていった。



郷愁
2011.09.03




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