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(あるひとつのifについて)






朝からひどく憂鬱だった。源田は一人には大きすぎるソファに身を投げるように沈み、真っ黒なテレビ画面を見るともなしに眺めていた。まだ午前であるにも関わらず、部屋の中はうっすらと暗い。快晴の続いた一週間は、最後の最後で崩れるらしい。

源田は恐ろしかった。もう何度も何度も繰り返し、心はすっかり摩耗して鈍い痛みが時折覗くばかりなのに、カレンダーの日付が進むに連れて、また友人のことを忘れてしまうのが怖かった。朝起きればまず忘れていないことを確認し、日に何回だって思い起こして、しまいには眠ることにすら怯えるようになった。毎年のことだと、いい加減に割り切ればいい。しかし源田はそれが出来なかったし、出来ないからこその源田だった。
いっそ引っ越してしまおうと思ったこともある。いい物件だって見付けた。けれど結局最後の最後で印鑑を捺すことが出来ずに、それ以来この家から逃げようとするのを諦めてしまった。おそらく他に移ってしまえば、二度と不動を思い出すことはないだろう。その確信は苦しいばかりで、ちっとも救いをもたらさない。忘れたくなかった。不動が何ひとつ自らの痕跡を残さなかったのは、さっさと自分のことなど忘れてしまえという唯一のメッセージであると源田は理解していた。けれど、だからといって、易々と従ってしまうほど自尊心は潰れていなかったし、その結末はあまりに悲しい。まだ覚えている、不動の好きなもの、嫌いなもの、目のかたち、髪の色。最初の出会い、第一印象、和解して、サッカーして、ふざけて、笑って、喧嘩して、仲直りして、学校帰りに買い食いしたり、目についた小石を蹴って歩いたり、勉強を教えたり教えられたりして、それから。まだ覚えている、全てひとつ残らずではないけれど、例えそれがほんの一部でも、覚えているうちは大丈夫だ、と。
不動は怒るかもしれない。いや、間違いなく激怒するだろう。自分の思い通りにならないとすぐに苛々する奴だったから、それで俺が意地を張って、久々に殴り合いの喧嘩をするのも悪くない。腹が減ったらパンケーキでも焼いて、薄くスライスした林檎とバニラアイスを添えた特別製の皿を並べたら仲直りだ。あれ以来バターも粉も切らしたことはないから、不動、お前がいつ帰って来ても困りはしないから。
一事が万事こんな調子で、源田の古い友人達はひっきりなしに訪ねて来ては戸を叩いた。自身の体調を気にかけてくれる人がいるということはひどく有り難いことだと源田もわかっていたけれど、彼らを迎え入れる度、なんだかそれが不動に対する裏切りのように思えてしまう。実際そんなものは気の所為で、しかし源田は内心平謝りしながら、居留守を使うことも少なくはなかった。

一度だけ鳴ったチャイムに出ようと思ったのは気まぐれだ。春の終わりなんて目に映るものでもないのに、なんとなく源田にはそろそろであることがわかっていたので、最後ぐらいは、と思ったのかもしれない。傍目には推し量ることの出来ない理由が源田にドアノブを握らせたのは確かで、あるいはそれこそが、安っぽい言い方ではあるけれど、偶然とか奇跡とかいうものなのだろう。

「ひさしぶり、」

源田は夢だと思った。眠るにはまだ早い時間帯にうっかり見た白昼夢だ。それも大層残酷で、とびきり甘い夢である。扉を開けたらそこに一等会いたい人がいる、手軽で陳腐で馬鹿馬鹿しくて、それでいて的確に胸は抉られた。源田は夢だと思った。それでもいいと思った。瞬きをしたら、消えてしまいそうだと思った。
だからその虚像を視神経に焼き付けるのに必死で、目の渇きに負けて閉じた瞼の向こうにもまだそれは立っていて、恐る恐る強く瞑ってみても消えなくて、振り切るつもりで擦った目の前にも少しだってぶれずにあったからいよいよわけがわからなくなって、最初の言葉以外は一言も喋らずにじっとこちらを見ていた綺麗なエメラルドグリーンと視線が絡み、その鼻先が僅かに赤く染まっていたから、ああ今日は少し肌寒いから早く室内に上げなければと考えた。
それでおかえり、と言ったら目を見開いたようで、掠れた声で小さくただいまと返ってきたから、その当たり前の貴重さが肺に詰まって重く落ちた。目の底はじわりと燃え出して、喉から低い唸りが漏れる。おかえり。おかえり。おかえり。最後の方は上手く言葉に成り切らなかったけれど、ぐつぐつと渦巻く感情の出口が欲しい。恨み言も泣き言も、とにかく今は二の次だ。ただ言わずにはいられなかった。おかえり。おかえりなさい、不動。

外では、静かに雨が降り始めていた。



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