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「許さない許さない許さない!!」
 突如としてチェス盤をひっくり返したミストレはそう喚いた。実力がほぼ互角ゆえに膠着状態に陥っていた遊戯盤は、予測しえない暴力によって呆気なく崩される。その相手をしていたエスカバは、特に表情筋を動かすこともなく降りしきる黒と白の兵士を享受した。おそらくその場に第三者が存在していたなら、驚愕の末に教官を呼びに走ったことだろう。それほどミストレの激昂ぶりは常軌を逸し、傍目には何の脈絡もなかった。
「許さない殺してやる殺す殺す殺す殺す殺す!!」
 それに対してエスカバは何も言わなかった。目には焼けるような憎悪を湛え、皮膚の爛れるような殺意を背負うミストレに圧倒されることもなく、ただ緩慢に、しかしどこか軍人らしい動きでチェス盤を再生させていく。淀みない手つきで直されたそれには、一寸も違うことなく戦況が再現されており、エスカバの能力の高さと几帳面な性格が窺えた。
「殺す殺す殺す殺す、」
「落ち着けよ、みっともねぇなァ。」
 そこでやっと発された言葉には、友人を案じるような甘い響きは欠片も含まれていなかった。そもそも友人同士と呼べるのかでさえ疑問の残る関係なのだ。窓一つない閉鎖空間の空気は冷え切っていた。

 あの厳重に秘匿とされた特殊任務が失敗に終わったことは、王牙学園に確実な変化をもたらした。元々が超極秘任務だったのだから、任務に失敗し帰還した十一名にもおおっぴらな処罰はなく、表面上何一つ変わることはなかった。しかし凍った湖面の下で泳ぐ魚のように、バダップは以前では考えれなかった人間らしい表情を次第に覗かせるようになり、お互いを意識しつつも不干渉を貫いていたミストレとエスカバは共に行動する時間が増えた。それを喜ばしいことだと感じる者が一部、反発を覚える者が一部。
 エスカバは前者だった。学園だろうが戦場だろうが、どんな不測の事態にも揺らぐことなく指示を出せるのが第一の前提条件としても、人心を掌握する為には多かれ少なかれ人間味のあった方が良い。宗教を起こす訳ではないのだ。欲しいのは盲目の信者でなく、その志に自発的に賛同し共に戦う仲間である。バダップはこれから未来、革命の指導者となる。本人の意志に関わらず、時代がそう望んでいる。そして、彼もそれを拒まない。そう考えたエスカバは、ある程度の将来を見据えていたと言える。
 二人の対照性は遺憾無く発揮された。ミストレは後者である。ミストレは上に立つ者としての素質も当然備えていたが、それ以前に一人の戦士だった。己を高め、磨くことに心血を注いでいた。ミストレの目標は、バダップを越えるという単純かつ明快でありながらも酷く難しいものだ。つまりミストレにとってのバダップは常に完璧でなければならず、一分の隙もないものだった。それがふにゃふにゃと軟弱者に成り下がったようにミストレには見えたのだから、仕方がない。ある意味で誰よりもバダップの信者だったのだから、手酷く裏切られたように感じたのだった。
「うるさい!君程度の人間にオレの気持ちはわからない!二番になったことなんかないだろう!ずっとそこはオレのだったんだから!」
 エスカバは静かにそれを見ていた。いい加減現実を受け入れてしまえばいいのにそれが出来ず、表面張力で保っていた精神の均衡が崩れて、洪水を起こしているようだった。今のミストレはさながら矜持と劣等感の化合物だ。それを憐れとも思わなかったが、ここで崩壊されては困る。この困るという感情の内訳として九割を占めていたのは自分の将来に関わる、という冷徹なまでの損得勘定だが、それだけでないということにエスカバはとっくに気付いていた。
 ただ認めたくないというだけで。
「……俺達は、あいつにはなれない。」
 それから目を逸らすために、なるべく平淡な声を出したはずが、空気を震わせたそれには苦い響きが混じっていた。自分が放った言葉に打ちのめされていたら世話がない。舌打ちしたい気分だった。卓上の遊戯盤を今度は卓ごと蹴り飛ばしていたミストレは、小さく肩を跳ねさせて暴れるのをやめた。そのまま糸が切れたようにしゃがみ込み、庇うように頭を抱える。それを見下ろす気になれなくて、エスカバは椅子を下りた。二人を隔てていたものが無くなった今、その距離はたったの三歩にも満たない。けれどそれは、途方もなく深い亀裂だった。
 僅かに瞳を揺らしたエスカバは、躊躇うように一歩を踏み出した。こうする資格というものが実は何処かに存在して、此処からはそれを持っていないと許されない領域なのかもしれない。だが憎まれ口を叩いて高飛車な態度で、『普段通り』を振る舞うミストレに我慢出来なくなったのは自分だ。それはご自慢の親衛隊も、サンダユウもザゴメルも他の奴らも、おそらく気付いていない些細な違和感だった。バダップあたりは感じ取っているだろうが、その理由まではわからないだろう。心配なんて優しい感情なんかじゃない、ただ喉の底がむかむかして、気が付いたら自室に引っ張り込んでいただけだ。理由なんてどうでもいい。警鐘を鳴らす既視感を宥めすかして、チェスに誘った。降り積もるように蓄積されていく澱が破裂する予感がした、たったそれだけの話で、別に無関心のままでもよかったのに。
 二歩目はゆるぎなかった。もう難しいことは知らない。思考放棄は最も忌避すべき行為だが、こんなときくらい理詰めじゃなくてもいいと思う。そのまま腰を落として、剥き出しの床に膝立ちになったエスカバは、手を伸ばした。
 最後の一歩分を埋めるようにして、ミストレの肩を抱き寄せた。殴られることも覚悟していたが、予想に反して大した抵抗もなくそれは腕の中に収まった。
 エスカバにはミストレの気持ちが痛いほどわかってしまったのだ。自分の世界を大きく占領して、決して敵わない。その背中ばかりを追っていて、それでもいつか越えてやろうとする存在が、ひとりでに消えていく感覚。勝負以前に、同じ土俵にすら上れなかった。なんとか見返してやりたいのに、向こうはもうこちらを見ていない。許せなかった。殺してやりたいとも思った。喚いて暴れて憎んで、それくらいしか、そのぽっかりと口を開けた空虚な穴を塞ぐ術が見つからなかった。
 いつの間にかミストレの腕が背中に回っていた。硬質な軍服の肩口にうずめられた顔から、微かに啜り泣く声がする。エスカバは泣けなかった。泣けるミストレを、ほんの少しだけ、羨ましいとも思った。



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2011.08.21




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