主に手を出したのはいつのことか。ちょうど今日のような空っ風が吹く夜だったかもしれない。そう考えながら、彼女の部屋へ向かうために忍ように歩く。濡れ縁から見える庭はどこかもの悲しげに見え、胸のあたりが重く感じた。

「主…」

ギィギィ鳴る廊下をしばらく歩くと、障子越しにほの明るい光が透けて見えるところがある。まだ起きているみたいだ。
静かに障子を開け、薄明かりの下で書物を読む彼女へ腕を伸ばし抱きしめる。


「ひぇっ!…あれ、鶴丸…どうしたの?」
「眠れなくてな…夜更かしに付き合ってくれないか?」
「構わないよ」

暗い部屋に彼女の赤い唇が浮かび上がり、扇情的に自分を誘う。引き寄せられるように、それへ顔を寄せ吸うように口付ける。
突然の口付けにも彼女は吐息を吐き受け入れる。本来ならば喜べる状況だが、受け入れられる度に心には疑心暗鬼な気持ちが湧いてくる。

それは好きだとも付き合おうとも言わない、曖昧でしかし体だけ繋げた関係だからだろう。

酒の勢いで繋げた関係に主は泣きもしなければ笑って許した。その甘さに心地よさを覚え、未だに夜に彼女の元に通う自分の曖昧さが更に悪化させた。悪いとわかっていてもなお、彼女に浸っていたい。

カタカタと障子が揺れ、風が強くなってきた。きっと風が雨雲を運んでくる。
そっと主と布団へ身体を横たえる。温かな体温が襦袢越しに伝わる。そっと彼女の頬へ手を滑らせ、目の下から輪郭を辿り顎へ指をなぞる。
彼女を好きだ。触れられることは嬉しいはずなのに、胸の重みが邪魔をし不安になる。いっそ、明確に関係を示してしまえばいいのか…。伝えたとして彼女は受け入れてくれるだろうか…。しばらく、口を開いては閉ざしを繰り返し囁くように呟く。

「…俺は、君が好きだ……」
「!」

息のような微かな呟きは彼女の耳に入ったらしく、彼女は驚いたような顔をした。あぁ、怖い。今はその顔が怖い。拒絶されるかもしれない。そう思ったら口は勝手に言葉を吐いていた。

「……と言えば満足か?ん?」

そうぎこちなく笑ってみせると、彼女は目を見開いたまま涙を潤ませた。じわじわと雫が溢れ瞳が揺れ始め、耐えきれなくなった分がツっと目尻を流れた。
それに対して今度は自分が驚き固まると、いよいよ彼女は顔をくしゃりと歪ませ唇を噛みしめるように啜り泣いた。静かな泣き声だった。

本当は知っていた。彼女が簡単に男に体を許すような人間ではないと。わかっていたのだ。ただ、自分は刀で彼女とは違う存在だ。何処かで遊ばれているのではと無いはずの心が竦んだのだ。

好きだ。この感情に偽りはない。

だが、臆病な自分がそれを伝えるための言葉を歪めた。その結果が今の彼女だ。
あぁ、ただの鉄と鉛の棒でいられたらどれだけ良かったか。そうすれば、こんな透明で悲しい血なぞ流させる訳もなかったはずだ。

「泣かないでくれ…」

外からは雨音が響いた。

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