▽ 君のため
学生生活を終えてしばらく、愛都は親の仕事を引き継ぎ忙しくも充実した日々を過ごしていた。
朝早くから出勤して帰りは夜遅くになってしまうことも多い。そして今日も定時であがれると思いきや急な仕事の依頼が入ってしまい結局いつもと同じ遅い時間になってしまった。
「今日は早く帰れるって言っちゃったからなぁ、怒ってるかな」
足早に帰宅路を進みながら、愛しい存在を頭に思い浮かべる。そうすれば自然と口元がほころんだ。
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「ただいま」
春から新しく移り住んだマンションの扉を開け中に入れば温かい空気が愛都を包む。
遅くなってしまったがきっと、今日もご飯を食べずに待っててくれているのであろう。部屋の中は美味しそうな匂いで充満していた。
「いや、今日は急に仕事の依頼が入っちゃってね、定時で上がれなかったんだ...ごめんね、“宵人”」
リビングにつながる扉を開け中に入れば愛しい存在、宵人がややむくれた顔をしてこちらを見つめた。
「今日も一緒に居られる時間が減っちゃったよ」
「本当にすまない。寂しい思いをさせたね」
ポンポンと頭を撫でてやれば宵人は猫のように愛都に擦り寄ってきた。それがまた愛しくて、愛都の心は幸福感でいっぱいになる。
高校を卒業し、社会人になってからというもの宵人は一段と愛都に甘えるようになった。それは前までとは段違いなほどに。しかし、それでよかった、前までは辛いことも1人で溜め込んで愛都をなかなか頼ろうとはしなかったのだ、その時と比較すれば今は宵人の中でも色々と踏ん切りがついてようやく人に頼る、甘えるということをしてくれるようになったのだ。
素直な宵人の様子に比例するようにして愛都も心配事が減っていった。
学生時代辛い思いをさせてきた分、一生をかけて自分は宵人を守っていこう、そう愛都は決心していた。
「あっ、こ、こらっ、まだ俺シャワーも浴びてないのに」
「だからだよ。夜ご飯我慢してたからお腹ぺこぺこなんだから」
それなら、早くご飯を食べようと促すも宵人はそれをピシャリと断り愛都が着ていたスーツを脱がせていく。
「ずっと待ってて寂しかったんだ。いいよね、それとも拒絶するの?愛都に拒絶されたらもう...」
生きていけないかも。そう言う宵人の顔は一瞬歪んだ笑みを浮かべているように見えた。それはまるで昔、高校の時に見た...あの男のような。
「そんな、俺が宵人のこと拒絶するわけないじゃないか。宵人にされて嫌なことなんてないんだから」
−そう、宵人とセックスするのだっておかしくないんだ...おかしくない、おかしく、ない...?
宵人は愛都の上半身をはだけさせると毎日のようにいじられぷっくりと腫れた乳首に吸い付いた。舐められては甘噛みされ愛都の息が徐々に乱れていく。
その様子に満足するかのように宵人は嬉しそうに笑うと今度はスラックスまでおろし、愛都の俄かに勃ち上がったものをやわやわと手で愛撫していった。
「可愛い愛都、壊れた愛都も大好きだよ」
熱に浮かされた愛都に囁き続ける宵人の言葉の意味を愛都が理解することはできない。
「ずっと一緒にいてね...俺も一生離すつもりはないから」
ー宵人とは違う声、宵人とは違う顔、宵人とは違う体。
ー宵人はこんなことしない
ー宵人はこんな風に笑わない
目の前にいるのは宵人じゃ、ない?
「俺が守ってる限り、お前はいなくなったりしないよな、なぁ、宵人」
いや、宵人が俺の前からいなくなるわけがないんだ、ちゃんとここにいる...ここに、いるじゃないか。何を自分は考えているんだ。
宵人はこんな声だった。宵人はこんな顔だった。宵人はこんな体だった。
幸せなはずの愛都の目は黒く濁っている。光のない瞳の中をグルグルと暗い渦が巻いていた。
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激しい性行為の後、ピクリともせずに眠る愛都を“綾西”は愛おしそうにみつめる。
宵人を失っておかしくなった愛都。死人同然となった愛都のそばにずっと寄り添っていた綾西をいつの日からか宵人と呼んで満足そうに笑うようになった。
最初は不満さえあったが、名前なんて今となってはどうだってよかった。愛都と一緒に居られる、その事実が綾西の拠り所であった。
しかし、気に食わないことが1つある。それは...
ー 〜♪
愛都の携帯に映し出される憎い名前。しかし、今の生活を続けるには必要な存在。
「恵 叶江、ね。この名前で呼ばれるのもどうなんだろう。まぁ、俺と同じであっちも得してるんだろうけど」
恵 叶江、それも宵人と同じでもうこの世には存在しない人間。だが、そんな人間から愛都へくる連絡。
「もしもーし、愛都なら今エッチして疲れて寝ちゃってるよ。要件あるなら俺が聞くけど」
鳴り続ける携帯に出れば電話越しに嫌味ったらしい舌打ちが聞こえた。
「大丈夫、この生活続けたい気持ちは俺も一緒だからあんたとのことを邪魔するつもりはないよ。なぁ、恵 叶江さん」
同じように嫌味ったらしくそう名前を呼べばガンっと何かを蹴るような音が聞こえた。
ー本当、こいつは昔から暴力的で嫌いだ。
『相変わらず減らず口ばっかだな、性格の悪さは変わらずか。まぁ、いい、愛都が起きたら伝えとけ。明日仕事が終わったら俺のとこに来いって』
それだけ言うと、綾西の返事を聞かずに声の主...香月はお前と話すことなどないというように電話を切ってきた。
本当に可愛くてそして可哀想な愛都。
愛都の世界は叶江に飼われていたあの時に戻っていた。綾西を宵人と呼び、香月を叶江と呼ぶ。
叶江に飼われている限り永遠に宵人を守っていられる。そんな偽りの幸福に浸り生きていた。
おかしいと思いながらも目を背けて。きっとそれはこの関係が続く限り一生覚めることのない夢なのであろう。
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