最後に笑うのは | ナノ
 その2



 気が付けば、手に血の付いた鋭利な刃物を握っていた。くぐもった視界に写るのは壊された扉と、倒れている人間の姿。
 ふらふらと、揺れるようにその人物の元へと歩いていく。それはまさに、夢を見ているような無意識の空間。

 『 殺してやる 』

 自身の口が勝手に動き、言葉を発した。体は自由に動き回る。とても、とても不思議な感覚だった。
 振り上げる包丁。その刃先は目の前で倒れている男に向けられている。

 ― まつ...たか、!?

 しかし、その人物を確認した途端、微睡んでいた意識が一気に浮上する。
 なぜこんなところに松高がいるのか。なぜ倒れているのか。

 ― 自分は一体、何をしているのか。

 己の犯そうとした行為に肝を冷やした。だが、それでも松高を刺そうと振り上げた包丁を握る手の自由は奪われたまま。

 『...い、や...いやだ...ッ、』

 抵抗すればギギギ、と骨の軋む音がした。
 今の状況についていけず、頭はパニックになる。何も思い出せない。体も、まるで誰かに操られているかのように自由が利かない。

 ― このままじゃ、松高が...っ、

 『...ッ、あ゛ぁ...クソッ、』

 そう吐き捨てた瞬間、遂に包丁は勢いよく振り下ろされてしまう。

 そうして重厚な肉を突き刺す感触が手に伝わった。...――― と、同時に脇腹からの激痛も伝わる。

 『ひっ...痛、ぁ゛...ッ、』

 松高を殺したくないという一心で込めた力。それによって刃の軌道は逸れ、自身の脇腹に刺さった。
 口の端を血がこぼれ、つたう。味わったことのない痛覚に穂波は死を覚悟した。

 それでも、その痛さのおかげか先程まで自由の利かなかった体から無駄な力がフッと抜けた。
 歯を食いしばり、包丁を体から取り去る。恐怖と痛みで穂波の瞳からは涙があふれ出ていた。
 体内から血が流れていくのが、わかった。服に血が滲んでいく。赤く赤く、自身が染まっていく。

 『う゛ぁ...グッ、』

 だが、穂波にはやらなければいけないことがあった。死を直感するのと同時に、走馬灯のように思い出してきたのだ。2人を殺した、記憶が。自身であって他人のような意識が勝手に“穂波”という器を支配している一時。
 穂波はその間、深い眠りに就いていたり、うつろな瞳でぼんやりとその光景をただただ眺めていたりしてた。

 血の流れる脇腹を庇いながら、立ち上がり寝室に向かった。

 『俺が...俺が、殺したのか...』

 ベッドの上。真っ白なシーツを赤く染め、その中心で血の気もなくぐったりとしているのは、愛していた1人の人間。

 罪の重さで、心が押しつぶされていった。...だが、立ち止まっている時間はない。
 穂波はタオルケットで日向の亡骸と凶器である包丁を包み込み、意を決してベランダまで引きずっていく。

 今の穂波では日向を持ち上げることなどできなかった。しかし、引きずるのでさえ出血が酷くなり、容易なことではなかった。

 ベランダで命尽きた二葉の遺体の横に、タオルケットで包まった日向の遺体を並べる。
 次に穂波はある場所を探した。それは...――――

 ―― 見つけた、

 ベランダの隅にある、白い四角い鉄のような箇所。それは下の階へと続く避難梯子だった。
 カタカタと下げ、下の階へと通じる道を作る。前に日向が下の階には人がいないから騒げるんだ、と言っていたのを穂波は覚えていた。

 少しでも気を抜けば意識を失いそうになる。再び立ち上がれば出血のために眩暈が襲った。
 だがそんな眩暈さえも押し殺して、まずは日向を引きずり、押し込むようにして下の階に落とす。まるで“物”のように何の抵抗もなく落ちていくその姿を見ていたくなくて、すぐに穂波は目線を逸らした。
 続けて小柄な二葉を引きずる。

 『お前からも...漸く解放されたんだな、』

 二葉の首についた、痛々しい痕。あれ程憎んでいたにも関わらず、穂波は胸を締め付けられるかのような苦しみを感じた。それは、後悔に似た感情。憎んでいても、穂波の中にはあったのだ。忘れ去られてしまうほど奥深くに潜んでいた、二葉への愛情が。弟のように可愛がっていた。大切にしていたのだ。その過去が穂波の胸を締め付ける。

 降り積もる罪の重さ。粉々に砕けてしまっていた穂波の心は今、消えようとしていた。その罪の重さに堪えられなかった。

 ずるり、と滑るようにして落ちてく二葉の体。

 『俺のせいだ...俺の。俺が、堪えていれば...狂ってしまわなければ...2人は死なずに済んだのに、』

 2人の姿を目に焼き付け、機械的に梯子をしまう。
 そして立ち上がり、ふらりふらりと歩き始めた。

 警察に捕まりたくない一心で2人の遺体を隠した。すぐに見つかってしまうとわかっていながら。
 それは松高と2人、自由に生きる可能性を僅かでも残すがためだった。
 しかし、改めて2人の亡骸を見てしまった今、穂波は罪悪感で打ちのめされ、生きる希望を失ってしまった。

 2人をあんな姿にしておいて、自分だけのうのうと生きていけるほど強い精神を持ち合わせていない。

 『俺のせいで...』

 口から出るのはそんな言葉ばかり。

 引きずるようにして歩んでいた足も、居間についたころにはついに止まり、穂波は崩れるようにして床に倒れた。
 血を流しすぎたのだ。それでも、よくここまでもったものだと自身に感服する。

 『松高...俺、お前と一緒にいれないわ、』

 耳の端で聞こえるサイレンの音。
 意識は遠のいていく。そうして混沌とした、闇の中へと消えていった。


 ――


 ――――


 ――――――


 『 じゃあ“俺”がもらうよ 』


 意識を失ったはずの穂波の口から紡がれたのは、そんな言葉だった。





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