▽ 2
曇天の空。日向のマンションに着き、インターフォンを鳴らすが反応はない。扉に手をかければあっさりとそれは開き、嫌な予感で胸をざわつかせながら松高は中へと入った。
「穂波先輩いますか!穂波先輩!」
相変わらずシンと静まり返った部屋。だが、ここで帰るわけにはいかない、と靴を脱ぎ廊下を歩く。
― カタッ、
「...ッ!!」
「あれー?おかしいな、」
気配もなく近くの扉が開き、人影が1つ、目の前に現れる。耳には聞き慣れた声が馴染んできた。
「穂波先輩!!...ッ、よかった.俺...――― え...?」
「どーして生きてるんだよ。さっき殺したはずなのに。」
目の前に姿を現したのは...――― 血濡れた包丁を持った、穂波の姿。
「まぁ、いいや。また殺せばいいだけの話だし。」
「...ッ!!ほな、み先輩、それ...血、誰の...っ、」
一歩一歩、着実に歩みを進め、近づいてくる穂波。状況が全く掴めなかった。言っている意味がよくんからなかった。だが、身の危険を感じ、とっさに松高は後ろへ後ずさる。
「逃がさない。今度こそ息の根を止めてやる二葉!!」
松高のことを“二葉”と呼び、包丁片手に刃向かってくる穂波。その目は異常なほどに見開き、口元には笑みを浮かべていた。
目の前にいるのは、松高の知っている穂波ではなかった。
体を捻り、避ける刃先。
― そもそも“二葉”とは穂波の従兄弟であったはずだ。その人物を見間違えたというのだろうか。いや、そんなわけはない。
「穂波せんぱ、ッ...待って!!俺は二葉じゃない!!松高っす!よく見てくださ...―――あ"ぐッ、あ」
「おしいなぁ。」
突如腕に走る、鋭い痛み。温かい液体がぬるり、と腕を伝って流れ始める。
腕を刺された。その事実は一気に松高の焦りを掻き立てた。
「おい、待て!!逃がさない、殺してやる!!」
今の穂波に背中を向けるという行為は一種の賭けだった。運が良ければどこかに避難することができるからだ。だが、一歩間違えれば...背中を刺されてそこで終わり。
「日向!!自分だけ自由になれると思うなよ!!」
近づく足音。次には二葉と呼んでいた松高のことを“日向”と、呼び始める。
すでに恐怖を覚えるほど穂波は狂っていた。
「...ッ!!」
玄関までだと追いつかれる。そう思った松高は一歩手前にある、開け離れた室内に逃げ込み、急いで扉と鍵を閉めるとパッと見て重たそうな家具を体で押して扉の前に置いた。
そして次にはズボンのポケットの中に入っている携帯で110番通報する。
「あ"あ"あ”ああぁぁッ!!殺してやる!!お前が悪いんだ!!」
ダンダンと激しく叩く音や、包丁を扉に突き刺すような嫌な音が室内に響きわたる。
今まで聞いたことがないほど乱れた、異常な穂波の態度は電話越しの人物にも聞こえたらしく、住所など2.3の質問をされ、すぐに向かうと言われた。
「...ッ、」
そこで安心したからか。急に視界がふらつき、松高は携帯を握りしめたまま床に崩れ落ちるようにして倒れた。
どくどくと血が流れ出る腕。床は自分の血で点々と赤く染まっていた。
「殺してやる殺してやる殺してやる!!ここから出てこい!!」
その間も依然として続く行為。しかし、ついに松高は...
「穂波、せんぱ...」
そこで意識を失った。
――
――――
――――――
「...っ、」
ふと、ざわつく音と腕への違和感で松高は意識を取り戻した。そして重たい瞼を開ければ、そこには救急隊員の姿があり、松高はちょうど腕への応急処置を受けている最中だった。
「意識が戻ったかい、君が通報してくれた松高君で合ってるかな?」
「...は、はい。そうっす...ぁ、先輩...ッ!!穂波先輩は!?」
すぐに思い出されるのは穂波のこと。救急隊員が来たということは警察が...
「...残念だけど、警官が来た時、君以外には誰もここにはいなかったんだ。君にこの傷をつくった犯人も。ただ残っていたのは、寝室のベッドにべったりとついていた血痕だけ。」
「え...そん、な...っ、」
「でも大丈夫。すぐに見つけ出すから。だから君はまず、この腕の傷をどうにかしよう。深く切りつけられてしまっているから病院で縫わなければ...。その後は、大変だろうけど事情聴取させてもらうね」
松高を落ち着かせるように、優しげにそう言う目の前の人間。
しかし、松高の動揺は計り知れないものだった。
― 穂波先輩どこに...
やはり、目を離すべきではなかったか。逃げるべきではなかったか。何とかしてでも穂波を止めるべきだったか。
そんなことばかりが一気に心を支配する。
― 俺が見つけ出さなきゃ...穂波先輩は俺が守るんだ...。
そして松高は決意を胸に込めた。
――― その決意を遂げることができない、ということも知らずに。
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