▽ 5
「いない...か、」
翌日の昼間。松高の家に鞄を忘れてきてしまった事に気がついた。穂波は重たい足取りでそこへと向かった。
しかし、当の本人は留守でそれは無駄足になってしまう。だから仕方なく穂波は松高には今日中に鞄を取りに行く、とメールを送った。
― まぁ、参考書なんかどうせ今回も使わないだろ、
昨日、二葉は携帯にかけても無駄だとわかったのか、家電にかけてきた。そして電話に出たのが母だったために、居留守は許されず結局穂波は長電話をさせられていた。
その時、二葉に明日...つまり夜が明けた今日、日向はバイトで昼間はいないと言われた。その言葉がさす意味は言わずもがな、一つしかない。
昨日の今日で他人と肌を合わせる行為はしたくなかった。ましてや、日向にその行為がバレているという状態で。
それにしばらく日向とも距離を置きたい。
― 今日は日向がいない。二葉と話をつけるなら今がちょうどいい。
まずは二葉を説得し、どんな条件をのんででもいいから日向と離れさせなければ...
そして穂波は限界まできている自分の心から目を背けて二葉が待つ日向のマンションへと向かった。
―
―――
――――――
― 本当、最近ついてないな...
日向のマンションへと向かってしばらく。バスを降りた穂波を出迎えたのは大粒の雨だった。
急いで目的地へと向かうが数分もしないうちに全身ずぶ濡れ状態になり、肌にべたつく服やズボンに嫌気がさす。
「...あ、穂波先輩!!」
もう少しでマンションに着く、というところで前方から自分の名を呼ぶ松高の声が耳に入ってきた。
「松高...なんでここに、」
「えーと、あの...鞄を届けようと思ったんすけど...穂波先輩なら今日も日向先輩の家に行くのかと思って...」
「ん?さっきメール送ったけど、」
「え!本当っすか!俺、携帯家に置いてきてて...」
「そっか。まぁ、でも会えてよかった」
傘を持たず、ずぶ濡れになっている穂波の元へ駆け寄ってきた松高はすぐに傘の中に招き入れた。
そして心配するかのように声をかけてくる松高に穂波は申し訳ない気持ちで心が溢れかえる。
「わざわざ持ってきてくれてありがとな」
「いいんすよ、別に。俺、夏休みはいつも暇してるんで」
そう言っていつものように笑う松高に穂波はどこか安心した。
マンションの入り口まで数m。ゆっくりと二人で歩きながらも松高は昨日のことについて聞いてくることはなかった。その気遣いに穂波は感謝する。
最近はずっと精神が追いつめられるような事ばかりが続いていた。そのせいか、今はやけにこの時間が終わる、ということに惜しさを感じてしまう。
もう少し、もう少しこのままこの時を過ごしたい。そんな願望も生まれる。
「穂波先輩...?」
「松高、俺...っ、」
だからだろうか。穂波はマンションの門の前に着いた時点で歩みを止め、松高の顔を縋るような瞳で見つめてしまう。
だがそこから穂波の言葉は途絶えてしまった。
ただ、穂波は今の自分の状況を聞いてもらいたかった。
ただ、あるはずのない救いの手を望んでしまった。
ただ、それだけ。
「...いや、何でもない。鞄本当ありがとな」
しかし現実、そんな助けを求める声も理性で押し込んでしまう。
結局は怖いのだ。全てを話して松高が自分から離れてしまうのが。自分を慕ってくれる松高。それでも、今の状況を話してもなお穂波を慕い、助けになってくれるとは限らない。
― 俺の日常は、周囲の人間関係は、おかしいんだ。
今まで特に弊害もなく普通に過ごしてきた松高にとって穂波が話したい内容は、酷く重たいものに違いなかった。とても気軽に話せるような内容ではない。
だから理性が働くうちに、さっさとマンションの中へと行ってしまおう、そう思った穂波は松高が持つ自分の鞄に手を伸ばした。
「...ッ!ま、松高っ!?」
その瞬間、穂波はその伸ばした手を松高に掴まれ、引き寄せられた。
不意を突かれたことによって勢いが止まらぬまま、穂波は松高の胸に倒れかけ、強く抱きしめられる。
雨でずぶ濡れの穂波を抱きしめることによって、松高の服にもじわじわと水が染み込むが、当の本人はそんなことに気を止めることなく、穂波を抱きしめ続けた。
密着している部分から広がる松高の体温は心地よく、嫌悪を感じることはなかった。
「な、何だよ急に、男同士で...――― 」
「俺は!...俺は、おかしい...のかもしんないっす。自分のことが分からなくて...俺、穂波先輩が、――― きっと好きなんだ...っ、」
眉を下げながらも、いつになく真摯な顔をしてこちらを見てくる松高。
だが、そんな松高には...
「何言って...お前彼女が――― んっ、んぅ...ッ、」
松高の言っている意味がよくわからなかった。だから状況を整理しようとした。
しかし次の瞬間には穂波は松高に唇を塞がられていた。どさり、と鞄が落ちる音がして、傘も手から離されたのか視界を陰るものが無くなり、変わりに冷たい雨粒が再び全身に降りかかった。
不意を突かれ、空いた口内にぬるり、と温かい舌が入ってくる。鼻を抜けるような声が漏れ、穂波が驚き反射的に後ろへ顔を引けば、松高は後頭部に手を当て自分の方へと穂波を引き寄せた。
歯列をなぞっては、舌を強く吸って甘噛みしてくる。近くに人目がないことが幸いだった。深くなっていく口づけ。
流れてくる唾液を飲み込めば顔がカッ、と熱くなった。
不思議と感じられない嫌悪。あるのは安心感だけ。
「...ッ、穂波...せんぱ、」
熱い吐息を出す松高に掠れた声で名前を呼ばれる。雨で濡れた松高はやけに色香を放っているように見えた。そうして再び重なる唇。
穂波はそれに抵抗しなかった。
とても居心地がよかったから。どうしてか幸福を感じた。
日向とはまた違う、特別な気持ちを松高に抱いていた。
どれほどそうしていただろうか。唐突に自身のポケットで鳴り響く携帯の音で2人はハッとしたかのようにキスを止め、唇を離した。
「...あっ、えーと...」
途端、穂波を抱きしめる手を離して恥ずかしそうに目を泳がせる松高。
その間に携帯をチラリと確認するが、それは携帯会社からの定期メールだった。
「...って、あ――ッ!!穂波先輩の鞄!!」
松高が慌てた様子で手にするもの。それは自分の傘と、穂波の鞄。
雨に濡れたのは松高と穂波だけではなかった。
「あぁ、いいよ別に。その生地、合成皮だし。そんなに中も濡れてないだろ」
「でも...うわ!ダメっす!!これはアウトっすよ!!」
松高の手から鞄を受け取り、中を見るが予想に反して少しばかり濡れてしまっている参考書があった。
だが、それは使い込んだもので、いくらか内容は頭にはいっていたため、穂波はたいして気にしてなどいなかった。
そのため、かまわずその本をしまい、鞄のチャックを閉めて肩に背負おうとした。
「か、買い直しますっ、!!鞄もちゃんと乾かしてから返します!!」
「うわっ!いや、いいって松高。本当気にしなくて...」
「ダメっす!!俺の気が晴れないんで...今日中に何とかするんで穂波先輩...もう少しだけ、この鞄お預かりしてもいいすか...?」
自分で鞄を穂波の手から取って、元通りにして返すと強く言ってきたくせに、最後には犬のように上目遣いでお願いしてくる松高に、思わず穂波は苦笑する。
「分かった。でも、わざわざ買わなくていい。変わりに、その参考書も一緒に乾かしてくれよ。よれてたって字は読めるから。あと、返すのは夏休み明けでいいぞ。どうせ始業式まであと1週間を切ってるんだ」
そう言って口角を上げて笑えば、松高は照れたように笑い返してきた。
「穂波先輩...俺のこと気持ち悪がらないんすか、」
だが次に目を合わせた時、松高は眉を下げ自嘲気味に笑った。
「後輩の、しかも同じ男の...俺なんかにキスされて、」
口を開くたびに声のトーンが低くなっていく松高。
「いや、俺は少なくとも嬉しかった...と思う。」
「え...っ、」
「嫌じゃなかった。全然。」
口を戦慄かせるのは松高で、穂波は自分のその言葉に頬を赤く染めた。
日向の時とは違う、ドキドキが生まれる。日向が執着だとすれば松高は...
「でもお前、彼女いるよな。ダメだろ、俺にキスなんかしちゃ、」
「...っ、」
「それじゃあ、俺は行くな。ここまでありがとう。鞄はよろしく」
松高の顔は見ずに傘の中から出てマンションの入り口まで走る。
「俺、夏休み終わるまでに全部はっきりさせます!!中途半端なままは嫌っすから!」
そう穂波の背中に叫ぶ松高。穂波は振り返り、眉を下げて笑んだ。
― そうだな。俺も中途半端なのは嫌だ。全てケリをつけてやる。
音を立てて降りしきる雨。松高は鞄を落とさぬよう強く抱きしめ、穂波は意を決してマンションの中へと入っていった。
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