長編小説 | ナノ


急速に勢いを増した運命の歯車
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ぴーんぽーん、を三回。新しくこのアパートに越して来た芥川慈郎は、隣室の部屋のベルを三回押した。母に言われた通り、引っ越し蕎麦なるものを片手に持って。

もし不在だったり相手がすぐに蕎麦を食べられない時もあるかもしれないから、蕎麦は買って来た乾麺にしておきなさいと言われたので荷物は軽い。一応二袋買ったのだが、生憎今自分の隣室の片方は空き部屋だと大家さんから言われたので、せっかく買ったのだしこれからお世話になるしと思って大家さんに一袋渡しておいた。最近は冷水ですすぐだけのものも出ているので正直それと悩んだのだが、乾麺の方が日持ちが良かったのでそちらにしておいた。

…まぁ、そんなことはどうでもいいとして。慈郎にとってこれが初めてのお隣さんへの挨拶である。どきどきである。今日から実家を離れて一人暮らす事になった理由は、店舗進出。実家とは別の支店の店長に任命されたので、一人暮らしをすることになったのだ。そろそろ親離れをする必要のある年齢であり、そろそろ結婚を前提に考えるような人を捕まえられるようにと母親が決めた事である。実家の跡を継ぐ兄は既に結婚しており、妹もどうやら彼氏とかの話をうっすら聞くようになったのに、次男である慈郎だけは一切そんなような話題が出たことがないので。確かに家でずっとごろごろしてれば流石に危機感も感じるかも知れない。勿論慈郎はそんなこと考えたこともないのだが。

実家から少し離れ、けれど同じ東京圏ゆえいつでも実家に帰る事も可能。もし食べるものに困ったりしたら一度家に帰ってご飯だけ食べてもいいのよ、って言われたので、もしそうなったらすぐにでも家に帰ろうと思う。自立というのは難しいので、小さなことから一歩ずつで良いんだそうだ。それってわざわざ引っ越しした理由あるんだろうかとも思ったが、仕事場へはダントツに実家よりも近いので寝坊しても安心なのは良い。店長が遅刻するというのは流石に避けたい事態なので。


さして古くもなく新しくもないこのアパートには、どんな住人が暮らしているのだろうか。ずっと実家暮らしであり、周りには祖父祖母がいる環境下で暮らしていた慈郎には想像もつかなかった。妹はビジンなおねえさんやおにいさんが隣りの部屋に越してきて、そこから『コイ』とやらは始まるのだと言っていた。(いや、越してきたのはおれなんだけど。)つまり兄に足りないのは、人生を変えるような刺激的な出会い、らしい。確かに慈郎はそんな天地がひっくり返りそうな程の事態に陥った事は生涯一度たりともなかったので、良い機会かもしれない。ずっと実家でごろごろしてるよりは人との交流も増えるだろうし。
ベルを鳴らして一分も経たないうちに、隣室のドアは開く。慈郎は母親から言われた言葉を脳内で何度も反復していた。


―最初の印象は、『女の人』だった。

いや身体は男だし、顔つきも何もかも女の人に似たところはないはずなのに、ふわり香った香水とかではない彼から発せられているであろう空気が、最初の印象を『女』と思わせた。明確な理由はない。証明できるものもありはしないけれど。
ややサイズの合わない手の甲まで隠れるほどの薄いカッターシャツを着たお隣さんは、藍色の髪に同色系の目がとても綺麗で、慈郎の脳内に強烈な青の衝撃を与えた。一度見たら二度と忘れないだろう、それくらい綺麗な色だと思った。
ドアの向こうから現れたお隣さんは、慈郎を上から下までじっくりと観察したのちに「どちらさん?」と優しく囁いた。柔らかな低音が耳に心地よい。第一印象が強烈だったせいでうっかり動きを止めていた慈郎は、その言葉でびくんと身体を揺らして思わず手に持っていた蕎麦を地に落とした。

「あ、」
「蕎麦落ちたで。…はい、」
「あ、いや、ち、違うの!これは、あの、」
「…もしかして、くれる気やったん?」

落とした蕎麦を律儀に拾ってくれたお隣さんは、かくり首を傾げてぽつり。落とされた声音に何故か心音が高まるのを感じて、慈郎はどうすればいいのか分からない。だってそんな、こんな風になるのは初めてなので、対処法が分からないのだ。とりあえず、持ってきた蕎麦をお隣さんに渡すのが目的なので、ぶんぶんと首を縦に振った。口で言えないのなら行動で示せばいいと母親は言っていたので。

「…ありがとうな、ご丁寧にどうも。ところで自分、今時間ある?」
「え?あ、えっと、」
「多分引っ越してすぐやろうし、色々あるから時間無いかもしれへんけど、ちょこっとでええから、な?」

渡した蕎麦を玄関脇の戸棚の上に置いて、お隣さんは急にそんなことを言った。よく分からないけど、時間かからないって言ってるのなら大丈夫かな。別にそう大した用事も無かったし、これから長く付き合うであろうお隣さんとスキンシップを図ることは決して悪くないと思ったので、慈郎は手招きするお隣さんの部屋に一歩、足を踏み入れた。



 


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