核心に乱され - - - 暑さから逃げるように、夏侯惇は珍しく釣りに出掛けて居た。青々とした森を掻き分けながら、水の匂いを頼りに足を進めるのも慣れたものだ。 先約が居る事もしばしばで、釣りの最中川鳥に魚を取られた事もある。それも釣りの醍醐味と言った所か、素直に楽しんでいる自分が居た。 今日もまた先約が居るのだろうか、川に近づくにつれて水の跳ねる音が聞こえて来た。何とも涼しそうなその音を頼りに夏侯惇は足早に進む。 「な……」 草を掻き分け漸く川縁に出る。夏侯惇の視界に捉えられたのは黒髪を一つに纏めた軽装の女が川から上がってくる姿だった。 動物に遭遇する事は何度かあったが、人に遭遇したのは初めてで。ましてや女とくれば内心穏やかでは無い。 「こんな所で女一人とはな、死にたいのか」 「す、すみませんっ夏侯将軍…まさかこんな所に人が来るとは思わず」 話しぶりを見て夏侯惇はその女が名前だと言う事に気が付いた。夏侯惇の知る姿は汗と泥に汚れ女っ気もない姿で、こんな透き通るような肌を見たことがない。脈打つ胸が妙に騒がしく、夏侯惇の手から竿が離れて行った。 首を傾げ近寄る姿を夏侯惇は知らない。 いや、知ろうとはしなかった。知ってしまったら想いを止められないような気がして。 「お前は……わかってるのか?何かあってからじゃ遅いんだぞ」 「夏侯将軍…私も一人の将です」 何かあった時は、それ相応の力で応戦出来ます。その為に毎日訓練してるんですから。 落ち着いた様子で夏侯惇を見上げる瞳は、戦場を駆けいてる時のそれで。濡れそぼった懐から小さな刀剣を引き抜くと、名前はその場で剣舞を披露した。 玉のように弾け飛ぶ雫と、重たそうに揺れ動く黒髪。透けるような肌が日の光を浴びて輝いていた。 夏侯惇は己の心にいつの間にか巣食っていた感情から、もう逃げられないのだと静かに悟る。 「実力は認める…だが」 「わっわわ!」 足先を石に取られ体制を崩した名前の腕をすかさず夏侯惇は引き寄せた。川の水で冷えた体温を微かに感じながら、夏侯惇はいつものように軽く頭を叩く。 「相変わらずお前は抜けているな…いい加減気を付ける事を学べ」 直ぐ様腕から解放し、落としたままの竿を拾い上げる。今日は一匹も釣れそうにない。 大きな岩に座り釣りの用意をする背中を呆然と眺めながら、名前は先程の温もりを思い出していた。いつもの荒々しさではなく、穏やかなそんな温もりを。 「夏侯将軍…私は駄目な副将ですか?」 「戦場での活躍だけは認めてやろう」 会話はそれから交わされる事は無かった。 眩しい程の日差しが降り注ぐ中、穏やかに流れる川は冷たい風を運んで。 名前はただ静かに川面に沈んだ針を眺めていた。 next ← | → |