劣等に襲われ - - - 早朝、夏侯惇は一人剣を振るって居た。朝の冷たい空気に肌寒い中、玉の様な汗を浮かべて。その様子からしてそれが随分前から続いて居るものと知る。 己の信じるまま踏み込んでは空気を断ち切って行く。その気迫は戦で名を馳せる姿そのもののような気がした。 「朝から気合いが入っているな」 その声に夏侯惇はピタリと動きを止めて振りかぶって居た剣をゆっくりと下ろした。 その声の主を夏侯惇は疑うまでもなく知っていた。だが、こんな早朝に訪ねて来るのは珍しい。一体どうしたのかと汗を拭いながら見上げると、まだ眠そうな顔が口角を上げる。 「碁でも打たぬか?夏侯惇よ」 「孟徳」 制止する声も聞かず、曹操はさっさと椅子に座ってしまう。仕方なく夏侯惇は剣を手放して碁盤の用意をする事にした。断った所で素直に頷く者では無いと理解している。 暫くして、2人の碁石を打ち合う音が響き始めた。 曹操に碁で勝てた事は無い、負かされる事を憤慨したりはしないがそれにはいつも問いがあった。今回もそうなのだろうと夏侯惇は腹を括る気持ちで碁石を打つ。 「あの副将は…名前と言ったな、どうだ?」 「……馬鹿なりに良くやっている」 曹操は不満そうな夏侯惇の顔を楽しげに見つめながら短い髭を撫でる。何故碁に誘ったか理由を知っておきながら、相変わらず夏侯惇と言う男は喰えない存在である。 長年の付き合いだからこそ、曹操には手に取る様に理解していた。 「儂が聞きたいのは…わかっておるな」 びくりと肩を揺らしながら夏侯惇は酷く狼狽えた様子を見せる。勿論曹操に隠せるもの等無いとわかって居たが、こうもあっさり見破られてしまうと良い気持ちではない。せめて、もう少し気持ちの整理がついてからでも良かったものの。 夏侯惇は指先にある碁石を強く掴みながら視線を落とす。 「…あいつを副将にしたのはこの国の為だ」 まるで自身に言い聞かせるような静かな言葉が木霊した。勝負の手が止まり、曹操も碁石を戻し腕を組むと困ったように眉を下げる。 夏侯惇と言う男は昔からそうだった、己の感情を押し殺し剣を振るう事で生きてきた。不器用なその生き様は嫌いでは無いが、だからこそ手を差し伸べたくなる。 「その様な生き方では大切なものを失うぞ夏侯惇?」 器用な人なら思うように行動するだろう、だがそれは夏侯惇には持ち得ない力だった。出来る事なら、そう願いながらも自身の意地が許さなかった。 冷たい風が2人をすり抜けて行く。夏侯惇の何とも言えない瞳が、その風を追い掛けて行った。 部屋に吹き込んできた風、早朝はとても肌寒い。微かなぬくもりを腕に抱きしめながら重い瞼を上げると、今日もまた一日が始まろうとしていた。 さらりと肩から流れ落ちて行く黒髪を背中へ追い遣って、名前は足先を冷たい空気に晒した。 「冷たい…」 寝起きの意識が定まらない声が、寒さに震えて居た。 next ← | → |