香に惑わされ - - - 木々の葉を追い越して鍛錬の終えた体を日陰で休ませた。夏侯惇の副将としての地位を頂戴してからと言う物、雑兵だった頃とは明らかに鍛錬の量は増えた。体は慣れない鍛錬に悲鳴を上げて居るが、それと同時に喜びも感じている。これで故郷の家族にも少しは楽をさせてあげる事が出来ると思うと、自然と体は動いた。 ほっと一息ついた所で鍛錬を終えこちらに歩いてくる人影に気付くと、名前は慌てて腰を上げる。 「夏侯将軍っお疲れ様です」 小さな体で力いっぱい走り寄って来る姿に、その後起こるであろう事が容易に想像する事が出来た。 暫くして、案の定名前は小石に躓いた。転びはしなかったものの、足元の小石程度に何故躓いてしまうのか。夏侯惇は呆れて溜息を吐く。 「この程度の石で躓くな、何でお前はいつもそうなんだ」 「すみません…夏侯将軍が見えたのでつい」 雑兵の中で一際目立ち、どんな戦況にも物怖じせず進んで行く様子を見て引っ張り出したは良いものの。名前は普段の生活ではとても危なっかしく、目の離せない存在だった。 「お前を副将にしたのは間違いだった」 今ではすっかり夏侯惇の口癖となっていた。いつもの様に怒鳴られすっかり小さくなった名前は落ち込んだ様子で頭を下げる。 間違い、そう間違いだったと思う。だがそれなりの力も兼ね備え、努力もしている様子を見ると踏み切る気力を失う。 何より名前の落ち込んだ顔を見てると調子を崩されて何も言えなくなってしまっていた。 我ながらどうかしている、そう思いながら黙って片手を差し出す。当の本人は叱られたとは思えない嬉しそうな表情で、腰に下げた布を渡して来るのだから達が悪い。 「…何だこの匂いは」 渡された布からは、仄かに甘い香りがした。普段の鍛錬に勤しむ様子を見て居ると男女の差など対して考えたりしなかった。だが鼻腔を付く香りは女のそれで。 夏侯惇は頭に血が上って行くのに気が付く。 「お前は俺を誘っているのか、こんな甘ったるい匂いをさせおって」 「そんな事…すみません」 どう言う経緯で名前に香なんて物が渡ったのかは分からない。だがそれは禁欲的な生活をする夏侯惇には刺激の強いものに違いない。 「俺だからこれで済んだものを…他の奴等ならどうなってたか知らんぞ」 田舎者の雑兵上がりの名前は危機感と言うのも乏しい。注意をすれば、ちゃんと謝罪するものの本当の意味を理解して居るか謎である。鋭い視線を向ければ驚いた表情でびくりと跳ねる。曹操じゃないが、頭が痛くなる思いだ。 「今後一切香を炊くのは禁止だ、良いな」 鍛錬で温まった熱と怒りの熱とで、夏侯惇の額には玉のような汗が浮かんでいた。仕方なく受け取った布で拭ってみると、仄かに甘い香りが顔に纏わり付いて仕方ない。 申し訳無さそうに俯いた頭に夏侯惇の拳が振り落とされる。 痛がる様子に布を叩きつければ今度こそ落ち込んだ様子を見せ、切なさを必死に押し殺していた。よもや名前が色恋沙汰に憧れるとも思えず、今回の事は本当に気付かなかっただけなのだろう。 「おい、饅頭を食いに行くぞ…お前も来い」 「夏侯将軍…お供します!」 漸く夏侯惇の溜飲も下がり、二人の背中は街へと向かって行った。 辺りは静けさを取り戻す。 next | → |