悲劇の産声が聞こえた
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虫喰い様より拝借
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我が君っ
悲痛に打ちひしがれた、甲高い悲しい声が辺りに響いた。床さえも気にせず座り込み寝台に横たわる愛しき人に、名前は涙を流しながらすがりついた。数日前から、いやもっと前から。曹操は生き急ぐように、国々に進軍していた。それはもう風の速さで。

何故そうまでも覇道の世を望むのか、一度だけ聞いたことがある。だが曹操は小さく笑い、名前の手を握るだけで何一つ答えをくれなかった。その様子から少なくとも薄々は感じていたのだが。


「我が君…名前を一人にしないで下さい、名前は我が君無しでは…」

生きてはゆけませぬ。震えた声で徐々に体温が薄れて行く頬に何度も触れた。

正室を差し置いて、側室の分際が最期を看取るなど後々どんな仕打ちを受ける事か。そんな今後の心配さえも名前には取るに足らない物に思えた。
愛する人がたった今永遠の眠りについた、その現実が名前の心を無残にも砕いていく。

「我が君…我が君っ」

名前の背後で何とも言えない様子で見つめていた夏侯惇は、苦しそうに瞼を下ろした。曹操が名前を大変可愛がって居た様子を見ていた夏侯惇にとって、これはあまりにも辛い現実。正室を呼ぶかと聞いた時、曹操は迷わず名前の名を口にした。


「…悲しいのは分かるが、孟徳の気持ちも分かってやれ」

「っ…………」

本当ならこんな言葉を口にはしたくなかったが、名前がこの場に居るだけで意味があると思ったのだ。
目を真っ赤にし、涙でべたべたした顔が振り向くと言葉にならない嗚咽が漏れ出した。いつもこの部屋にやって来る、小綺麗な名前の姿はどこにも無かった。

居たたまれなくなり、夏侯惇は名前の頬を止め処なく溢れる涙を拭ってやる。生きた涙はこんなにも暖かい、曹操が知ればさぞかし喜んだだろう。何せ可愛がって居た側室が、化粧も衣服も気にせず悲しんでくれているのだから。新たな旅立ちには良い土産になるだろう。


「生きる…希望でした」

我が君が居るから、女の園でも凜としてられました。私にはもう何もありません…生きる希望、意味、価値、全て失ってしまいました。
自嘲じみた悲しい笑みで視線を落とした名前。側室とは言えまだ若く、新たな人生を生きるには十分時間がある。まだ進んでいける、ただ痛みがどうなってしまうか、夏侯惇はそれが心配だった。

「生きてる限り死は訪れる、どんな顔でも前だけは見ていろ」

「……我が君」

切なく愛しい人に振り向けば、眠るように安らかな顔がそこにはあった。心はまだ震えている、痛みに喪失感が襲っている。曹操なくとも存在する道が目の前にあるようで、名前は曹操に深々と頭を垂れると泣き笑いで口を開いた。


「永遠など仮初めと良く言いますが、私はこれからも我が君だけのもの…お側を離れません」

はっきりとした強い口調で名前は静かに曹操への愛を再び誓ったのである。ただひたすら深い深い眠りがやって来るまで。
夏侯惇は名前の背中を見つめながら、曹操の目指す先を一生懸命追い掛ける生きた名前を見た気がした。


「良いんだな…お前は」

「勿論です…我が君と共にある事が名前の幸せです」


涙を袖で拭いながら、名前は満足感に満たされた笑顔を浮かべた。

その日から名前の姿を城で見掛けた者は一人も居なかった。暫くして、あれ程長くしなやかな髪を短く切り揃えた姿が曹操の墓前に通って居ると言う報告が入る。


悲劇の産声が聞こえた

(生きてる限り絶望と孤独、なれど小さき希望はそこにある)


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