夢が醒めてゆく速度 - - - 虫喰い様より拝借 - - - - 曹操の開いた宴は深夜まで及んだ。沢山の数え切れない酒と料理も、まだまだ絶えそうにない中酒豪達は楽しげに笑っていた。 宴の手伝いが足りず駆り出された名前は、普段国の薬師として働いている。向き合うのも薬になる葉や根などの材料か、病人くらいで武将などとは殆ど面識が無い。その中でも良く怪我をする者はある程度把握しているくらいで、忙しいを理由に駆り出されるには少々足りないものを感じていた。 口元を布で隠し、いつもなら絶対袖を通さない衣服で酒を注ぎながら歩き回る。正体がばれたら何と言われるだろうか、名前はそれが心配だった。 なるべく見知った人には近付かないよう勤めて居たが。 「…見知らぬ顔だな、新入りか」 普段酒の席では、殆ど一人で飲むか宴の席を逃げ出すかしていた夏侯惇は一際目元に特徴のある女に視線が行き思わず声を掛けていた。 睫は長く、瞳は程良く潤って、瞬きする様は憂いを帯びて。女っ気の無い夏侯惇でさえ気になった。 名前は早速良く傷薬を取りに来る一人に捕まり、内心で大きな不安を膨らませた。なるべく口を聞かないよう、何度か小さく頷けば夏侯惇は顎に手を当てて唸る。 酒と男と料理の匂いが立ち込める場所にはあまりにも不釣り合いな良い女。そんな事を思いながら右手に持つ杯を黙って差し出した。 不安からか名前の酒を注ぐ手が小さく震える。 「珍しく煩くない女が居たもんだな」 夏侯惇は辺りに散らばった、楽しげに笑う女達を眺めながら呆れたように溜め息を吐いた。先程から一言も発さない女は杯に満たされた透明な銘酒に視線を落とす。宴の場こそ賑やかな世界からまるで切り取られたかのように、そこだけは静寂だった。 夏侯惇は興味深いその姿を見て、喉に酒を流すと久しぶりに酒と言う味を感じたような感覚を覚える。 「…お前を見ていたら酒が美味い」 名前はびくりと肩を揺らして更に顔を俯かせた。いつもやってくる夏侯惇と言えば、ぶっきらぼうに最低限の言葉しか話さなかった。ましてやそんな姿から甘い言葉を囁くなど想像が付かない。それだけ普段の夏侯惇は堅物と言う印象がある。逆に今目の前で珍しくも貴重と言える言葉を耳にして幸運だったのかもしれない。 俯いたままの名前にそっと手を伸ばした夏侯惇は、甲で頬をやんわりと撫でるとまた杯を差し出したのであった。 毎日良い匂いとは言えないものに囲まれながら過ごす名前にとって、男と言うのは一番遠い存在、縁の無いもの。頬に触れられるのも、甘く囁かれるのも初めての経験で、酒を注ぐ手が更に震えた。 「俺が怖いか」 そんな事を言わないで欲しい、慣れてないだけなのだから。 そんな熱い瞳で見つめないで、耐えられる自信がない。 名前はただ首を横に振った。 「……ならばせめてお前の声を聞かせろ」 夏侯惇の息が耳元をそっとくすぐった。未知の感覚が名前の体をぶるっと震わせる、こんな事をされたら尚更言葉が喉を通らない。周りで騒がしい娘達ならどんな反応をするのだろう、楽しげに腕を絡めて見上げるのだろうか。ならばそれは出来ないなと自負した。そんな術は生まれてこの方、学んだ事も無い。 薬の匂いに囲まれた一室で再会したら、彼は。 名前は最後にお酒を注ぐと、腰を上げてそそくさと宴の席を逃げ出した。背後で呼び止める声を聞いたような気がしたが、それに足を止める程神経は太くないつもりだ。 またぶっきらぼうに、お互い事務的に再会するにはこれが限界の境界線のような気がした。 夢が醒めてゆく速度 (またですか…あれ程気を付けろと申したのに) (…………) ← | → |