夜が怖いおとな - - - 虫喰い様より拝借 - - - - 1日の始まりは太陽が昇る事にある、そして、1日の終わりは月が昇る事にある。動き続け疲れた体を癒すかのように吹き込む冷たい風が、湯浴みで火照る名前の肌を滑って行った。濡れた髪を指先で整えながら、廊下を歩む足を止める。今夜はとても丸い月が昇っていた。 司馬懿の侍女として、本日も無能な凡愚と呼ばれながら頑張って来た名前。最初は切ない気持ちを自分の部屋まで持ち込んだものだが、漸く慣れ最近ではそう言う人なのだと割り切って仕事に当たっている。同期は司馬懿の口振りに負け全て辞めてしまった。 今や長く続くのは名前一人となり、仕事も体の疲れも増えるばかりだ。 「この様な時間までご苦労だな」 向かいからやって来た大柄の男は、少し困ったように小さく笑いながら名前を見下ろした。黙って頭を下げると、下げた頭にそのまま骨っぽい手が優しく落とされる。 「いつもの事ですから」 名前がそう口にすると、男はまた困ったように笑うのだ。この男、名は夏侯惇。司馬懿に仕えるようになってから、怒鳴られて居る様子を偶然にも何度も見られてしまっている。人は誰でも失敗を恥じる物だが、既に羞恥心を持つ事さえ無くなってしまった。それだけ夏侯惇と良く遭遇して居るとも言えるのだが、半ば諦めているとも言える。所詮は他人同士、またかで済めばそれで良いのである。 「相変わらず、根性だけは薄れんな」 「割り切れば、辛いと感じません…そう言う方だと納得した者が勝つのです」 「成る程な、見ていて飽きぬ女だ」 それは、無能な凡愚と呼ばれて居る姿の事を言って居るのだろうか。聴きたい気持ちがありながら名前がそれを発する事は無かった。 仕事をしながらも尚凡愚と言われて、達成感もあったものでは無いが。名前はこうして夏侯惇に誉められる一時が何よりの楽しみだった。 しくしく涙を流し、傷付いてますか弱い私です。なんて姿は戦で命を掛けてる人には絶対さらせなかった。せめて暴言と言う名の敵将に挑む兵士のつもりで強がりたい。 そうでなければ、立場も弁えないこの想いを抱えられないのだ。 口にはしない、だからせめて抱えるだけでも。 「お前程芯の強い女はなかなか見ない、司馬懿に飽きたらいつでも来い…お前なら大歓迎だ」 「夏侯惇殿にそこまで言って頂けるなんて光栄です」 本当ならば今すぐにでもと口にしたい所だが、近付けば近付く程欲張りになるのは女の一つの想い。淡い想いを抱えるだけで精一杯、それ程夏侯惇と名前には立場の差があるのだ。 名前は楽しげに笑う夏侯惇を見上げながらその姿を目に焼き付けた。 明日が始まるまでまだまだ時が掛かる。夜明けを待つまでの不安と、明日を迎える為の気力を養う為に。 触れる事も、愛を囁く事も許されない一人の名前がただ怯えるのは明日へ刻々と近付こうとする時。 「今夜は冷えるな…体を大事にしろ、引き止めて悪かった」 「とんでもない、また可愛がって下さいな」 精一杯の笑顔を浮かべると、それを見つめた夏侯惇の肩がぴくりと小さく揺れた。 夜がこわいおとな (耐える姿も可愛げがあるが) (これで明日も凡愚は頑張れる) (折れると言う事を知らないのか) (また明日も会えたなら…) (………) (………) ← | → |