音こそ泣く
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水気を失い、カラカラと乾いた喉から何とも言えないうめき声が搾り出される。痛みを感じてからどれだけの時間が経っただろうか、最早流れるものさえないように感じられたが、少しずつこの体から抜け落ちていく気力が思考を掻き消した。地面へと落ちて行く痛みの象徴、ゆっくりと顔を上げると未だ激戦を強いられる人々の背中が瞳に映る。天下分け目の関ヶ原は、仲間や信念、そして義さえも霞んで行こうとしていた。
今まで仲間と信じていた者が反旗を翻し、その刃を向けてくる。強く締め付けられる胸の痛み。せめて、せめて三成だけでも、そう思い名前の足は西軍本陣へと向かっていた。

周りに敵を作りやすく、誤解されやすい、それでも三成は誰よりも皆が笑って暮らせる世を望んでいるだろう。こうしている今も諦める事無く。名前は握り締めた刀を強く構え、西軍本陣付近に蔓延る敵を一掃して行く。花を散らせるが如く、天に舞い上がる痛み。奥歯を噛み締め何とも頼りない体に力を込めた。


「三成…死んでは、駄目」


既に開放されている本陣の奥では鉄扇を構えた姿が、こちらをじっと凝視している。敵か味方か見分けるかのように。

名前は一度その足を止め、力無く微笑むと一気に脱力してその場に座り込む。否、倒れ込んだに近い。まだ命は断ち切れて居なかった、そう思っただけで心の底から安堵したのだ。倒れた衝撃に全身を走りぬける痛み、呼吸が乱れる。靄の掛かる視界から、死と言う逃げられない恐怖が襲い掛かり握り締める手が震えた。何度呼吸しても、苦しさは解消されず…何度傷を拭っても、血は止め処無く溢れる。薄っすらと遠退いて行く意識の中で、名前はかつて秀吉が生きていた頃の記憶を辿っていた。未だ世は乱れ、不安定な足場の上でもどこか笑顔の溢れていたあの一時。もう二度と戻る事の無い瞬間は無意識の内に、名前の閉じかけた瞳に涙を浮かばせる。


「秀吉、様……三成……」


「…何だ」


ふと、頭上から降り注いだ何とも言えない不満を孕んだ声。まるで消え入る声に返事を返したかのような声。名前は残された力を振り絞り、声のする方へと視線を上げた。そこには先程遠くからこちらを眺めていた男が、鉄扇を宙で遊ばせながら立ち尽くしている。それも目と鼻の先に。力が抜けたように頬を流れていった涙は、微かに温かくそれは差し出された三成の手の平と似ていた。
汚れた指先でそっと三成の手に触れると、思いもよらない力で引き寄せられる。感じた重力は弱々しい足元に活力を与え、名前は再びこの関ヶ原の地に顔を上げるのだった。

困ったように笑って見せれば、三成はぴくりと片方の眉を動かしいぶかしげに溜息を吐き出す。


「こんな戦の最中によく笑っていられるな」


「…三成が生きててほっとしたんだよ」


その言葉を聞いた三成は居心地が悪そうに、視線を逸らすと今も繰り広げられる戦いを見つめる。天へと掲げた信念が為に戦ってきた全てが、今こうして崩れていく光景は三成の胸を痛ませ、名前の胸を締め付けた。風に乗ってやって来る痛ましい匂いは、追憶の姿を隠し絶望へと誘うよう。いつもの覇気さえ無くした三成は空を見上げ、強く瞼を下ろす。そうする事で痛みを和らげるかのように。
名前は隣でその姿を見つめながら、今一度失った物を取り戻すが如く大きく深呼吸した。まだ諦める訳には行かない、かつて皆が願った未来をここで失う訳には行かないのだ。

そして、刀を構えた。目の前に駆けて来る敵を止める為に。やけに騒がしい胸はざわざわと風に吹かれる木々の葉のようで、落ち着いていた呼吸も次第に荒ぶる。大きく見開かれた名前の瞳は、痛みさえ悲しみさえ苦しみさえ振りほどき、一筋の光が差し込んだ。


「ごめん、少し諦めかけてた…もう大丈夫」


「っ名前!…待てっ」


三成の制止する声も聞かずに、名前は力強く一歩を踏み出した。風を正面に受け、空をも切り裂いて銀色の刃が閃光を放つ。一人倒れては踏み出して、二人倒れては踏み出して、西軍の本陣からみるみると遠ざかって行く背中には確かに仲間達の掲げた信念が宿っていた。
三成は汗でじっとりとした手で鉄扇を構えると、名前の背を追いその足を踏み出す。幾度も経験してきた戦いとは違い、胸から這い上がってくる焦燥感はいつもの三成から冷静な表情を奪う。屍を、屍を追い越して進む足の先に願う未来はあるのだろうか?そんな不安が過ぎったその時。
向かいから傷だらけで駆けて来た物見が、兼続と幸村の援軍の知らせを声高らかに響かせる。

その瞬間、辺りからは士気上がる声が響いた。


「これで戦況を覆せる…名前、無理はするな」


援軍の知らせを聞いた名前は足を止めて、追いつく三成をじっと見つめていた。大きく見開いた目は濡れそぼり、小さく呼吸する口元は震える。その姿を落ち着かせるように、三成の手の平が肩に置かれる。その瞬間緊張の糸がぷつりと切れたのか、名前は空を仰いで子供の様に泣いた。この苦痛でしかない戦場に救済の友の知らせは、大きく震えながら胸を暖める。

音こそ泣く黒し縄取り関ヶ原一つ二つと願も灯り


「…泣くな、粗暴者」


「仮にも女、なんだけど…っ」


涙声でそう口にすると、三成からいつもの様に冷たく知らんと返されてしまった。もう、三成に焦りは無い。ただ真剣な眼差しで遠くを見つめる。あと少し、あと少しで援軍がやってくる、それだけで掻き消した物は最早面影すら残さない。
名前は、ただ頬を伝う涙を素直に受け止め空に泣く。喉を響かす声は、鼓膜を大きく叩き雨が地に降り立つ音と似ている気がした。


「名前……まだ終わりじゃない…泣いてる暇があるなら剣を取れ、お前の力が必要だ」


真剣な声は霧にも負けずに、この関ヶ原の地に木霊す。名前は何度か大きく息を吸い込んで、悲しみを喉の奥に押し込むと最後の一粒を流し奥歯を噛み締める。強く閉じた瞼、濡れた睫に幾つもの雫を携えた様子。三成の指先がそれらを拭うと、剣を握るに相応しい姿が小さく微笑を浮かべるのだった。

これからが本当の戦い。


終幕


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