尾を摘まむ
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目の前に並ぶ饅頭と湯気の立つお茶を前に、腰が上がらない名前は大きな溜息を吐き出した。傍らには忘れられた資料がひっそりと息を潜めて居る。否、忘れたつもりは無いがぎりぎりまで現実を思いたく無く忘れたふりをして居る。
ただそれを届けるだけ、それだけの仕事をこんなにも億劫だと感じるのはあの石田三成の所為に違い無い。人を寄せ付けないあの鋭い眼光に射抜かれると、名前はどうも思ったままの意見を伝える事が出来なくなる。気が弱いと言えばそれまでだが、それがこの重い腰に繋がって居るのである。

「そろそろ殿に届けて貰いたいんですがねぇ…どうして貴女はこうも」

頭を抱える左近を正面に、名前は苦い表情で饅頭を口に運んだ。空腹に腹が鳴っては困る、だがそれだけを理由に饅頭を手に取る訳ではない。甘さに口内が支配されてる間だけは、不安定な気持ちを忘れられるのだ。

「これは良い餡ですね、とても美味しい」

「はぁ…ですが、流石にそろそろ」

口の中で溶けて行く甘さが、沈む心を慰めてくれている。それが何よりも名前を安堵させた。だが次第に咀嚼する顎が落ち着くと、その体は妙に落ち着かなくなり表情も暗く落ちて行った。

「はぁ…嫌だ…嫌だっ行きたくないっ」

「名前殿、落ち着いて下さい…ほらっ饅頭でも食べて」

左近に促され再び饅頭を口に詰め込む。名前は表情をにんまりと崩しながら安堵したように顎を動かした。

この一連の流れが先程から何度も続いて居る。左近がわざわざこうして名前を呼びに来るのも、いつも届けが遅い事を理由に三成が言い付けた一つの仕事だ。初めはそれこそいい大人が何を甘えた事をと思ったものだが、何度もその姿を目にする事で名前が本当の意味で不安と戦って居る事に気が付く。

「まぁ、その饅頭は俺の奢りなんですがね…」

「ごめんなさい、三成殿が嫌いと言う訳では無いのですが…見つめられると…」

思った事が上手く言えず、落ち着いてから自己嫌悪に陥るのです。名前が何よりも恐れて居る物は小さな呟きと共に畳に吸い込まれて行く。
談議をすり替え己が不満をぶつけるだけの他の者達を思えば名前の考えてる不安要素など可愛いものだと思いながら、左近は忘れられた資料を手に掬い困った様に笑う。

爛々と床這う獣尾を摘まむ鼠一匹その身隠して

左近の背中を見上げながら、胸より湧き上がる不安を腕に抱き締めながら重い足がゆっくり前へと進んで行く。
食べ過ぎた饅頭の代償か、鳩尾の痛さに眉を潜めて名前は大きな溜息を吐き出した。

「左近殿、胃が痛みます…」

「食べ過ぎですなぁ」

その背中は足を止める訳でも無く、ずんずんと進んで行く。左近が甘やかすのは部屋を出るまで、一歩出たものなら必ず何があろうと三成のそこまで連れて行かれる。

やがてやって来た見慣れた襖を前に、膝をついた名前は泣きたくなる気持ちを飲み込んで呼吸を整えるのである。

終幕


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