魔が誘う - - - 風に流され、夕暮れ時に祭囃子が耳に届く。橙に染まる横顔は煙管を口に咥えながら、その一服を楽しんで居た。着流しから膝を出して、だらしない姿を晒しておきながらその存在感が薄れる事は無い。 「行かなくて良かったのですか?」 幸村はその横顔を眺めながら口を開く。昼間、散々と祭の話を聞かされてっきり日が暮れたら一目散に出掛けてしまう物だと思っていた。 だが当の本人は、日が暮れても祭囃子が聞こえて来ても出掛ける様子を見せず。この通り紫煙を燻らせて居る。縁側に投げられた赤い下駄が淋しく横たわって居た。 「ちゃんとこうして楽しんでるじゃないの」 「え、と…どう言う事でしょうか?」 口から紫煙を吐き出しながら幸村を見つめた名前は楽しげに笑う。この空気が正にそうじゃないかと口にして、煙草盆に煙管を打ち付けると火皿から灰が転がって行く。 「不用意に近付いたら帰って来れなくなる」 「どうして、帰って来れなくなるんです」 幸村は名前が何を言ってるのか、理解出来なかった。子供じゃないのだから帰り道を失う事など無いと思うのだ。 それだと言うのに名前の横顔は遠くを見つめ、祭の焦燥感に似た空気から一歩引いてるように見えた。 「その日だけの特別な空気は好きだよ…でも一晩経てば」 皆何事も無かったかのように元の生活を始める。取り残された時思う、私は帰り道を間違えてしまったんだって。 指で煙草を丸めながら名前は耳をすましてその音色を聞いていた。 「…名前殿の言う通りですね、私も祭明けは取り残されてしまいます」 「幸村殿が?全く想像がつかない…」 「私も人の子ですから、祭の喧騒に胸は躍りますよ」 失礼かと思いながらも、気付けば槍を振り回し鬼神の如くその眼光を光らせている幸村が道楽に胸を躍らせる様子が想像出来なかった。 少し驚きながら、火皿に煙草を詰める姿を見て幸村は困った様に笑う。 魔が誘う夜の帳に響く音祭囃子に紫煙が揺れて 「吸い過ぎは体に毒ですよ?」 「祭囃子も心地が良い、そこに煙草があれば尚の事」 そこにはいつもの気を張った様子は無く、ただこの一日を自由気ままに楽しむ姿が瞳に映り込む。幸村もまた、足を崩し畳に両手をついて心地良さそうに瞼を下ろした。 夜の帳が下りる中、祭の喧騒は落ち着きそうに無い。今もまだ楽しげに聞こえてくる音色が気持ちを誘い落ち着かなくさせる。 かつん、と渇いた音が響く。 終幕 ← | → |