垂乳根の唄
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何年も土の中で眠っていた子が、漸く這いずり出して泣き出す夏。縁側から下がる簾の影の中、桔梗の茎を冷たい井戸の水につけながらねねは小さく微笑んだ。何故かと言うと花鋏を持ってきて欲しいと頼んでいた名前がやって来たからだ。その小さな手には、しっかりと花鋏が握られている。ありがとう、ねねの声に名前は握っていた鋏を手渡す。
この桔梗は本日やって来た客人が、暑い季節に涼しさをと持って来てくれた物だ。じっとしているだけで汗も滲む暑い、暑い夏の日には桔梗の青紫が涼しさを運んでくれるようだった。

元から口数の多くない名前だったが、こうしてねねとの時間を過ごすのは嫌いじゃない。その優しい微笑みに自然と言葉が溢れてくるのだ。


「これで桔梗も沢山水を吸えるね…有難う、名前ちゃん」


そう口にしたねねの手元で、細い茎がぱちんと断たれる音色がする。
蝉の鳴き声も、煩いと思わず口元に笑みを浮かべた横顔を見つめながら名前も自然と口元を許す。


「水切りが済んだらお茶でもしようか、美味しい菓子を貰ったんだよ」


「そんな、おねね様に申し訳無いです…どうか秀吉様と」


単なる一武将でしかない名前にとって、その言葉は何よりも申し訳無いもの。戦でそれ程力にもなれない未熟者だからこそ、名前は首を強く横に振る。その姿を見たねねは、至極悲しそうに手に持っていた桔梗を離すとそっと名前の頬に濡れそぼった手を当てた。井戸水で冷え切った手の平の温度は、無意識に熱を燃やす体を一気に冷やして行くようで、夏場に感じるぼんやりとした意識を覚醒させる。
霞んでいた視界が徐々に晴れ渡っていくように、鮮明に見て取れたねねの顔。簾の影が落ちていながら、その悲しそうな表情は瞳に映り込む。

はっと思わず息を呑んだ時、外の木に止まっていた蝉が一気に強く泣き出した。


「名前ちゃんもあたしの子供みたいなもんさ…母さんの前で遠慮なんて要らないんだよ」


あやすように柔らかく耳の鼓膜を刺激した声。そう、ねねは武将達に養子も居るが他の者達にもこうして接してくれている、時に叱り時に心配し…時に優しく微笑を浮かべている。いつもなら顔を合わせれば相容れない関係に火花が散る者も、ねねの前では喧嘩など出来なくなってしまう。豊臣の母に叱られてしまうからだ。

一つの軍でありながら、一つの家族でもあるこの場所が名前はいつも心地が良いと感じていた。戦が終わった後、その疲れを癒す為に母の作ったの鳥雑炊は、皆がいつも楽しみにしている。乱世と呼ばれようと、この絆がある限り豊臣軍は進軍し続けるだろう。願う乱世の終わりを夢見ながら。
名前は困ったように笑いながら、すみませんと一言口にする。



「それじゃ、早くこの花を生けてしまわないとねっ」


「では…私は茶器の用意を」


「あっ駄目!…それは母さんの仕事だよ」


慌てて立ち上がろうとした体に両腕を巻きつけたねねは、ふふっと小さく笑いながら傾いた体制を整える。いくら子供と呼べども、殆どが一人突き進んでしまう手の掛からない男ばかり。その中にぽつりと咲く一輪の花の様な名前が可愛くて仕方ないのだ。こうして乱世と言う世界に生まれ、行き急ぐように駆け抜ける姿は何よりも儚く手を添えたくなってしまう。
いつかその名前でさえも、この腕から去ってしまうと知りつつも。

今一度、桔梗を手に取って平らな器へと生けられた姿はどこか母の姿に似ていた。凛として気品溢れ、温かい愛も感じる姿。横目でその様子を見つめていると、一本の桔梗は二本に増える。二本から三本、三本から四本。ねねの滑らかな手元が織り成す様子は、本当に温かいもので名前は胸が熱くなるのを感じる。


「あたしね…子は孕めなかったけど、来世でもみんなに出会いたいんだ…きっと余計なお世話だって言われるんだろうけど、ね…神様はそれ位してくれても良いじゃないかって…思うんだよ」


暖かく垂乳根の唄届いたらゆれる揺り篭喜び増して

来世と今との区別は曖昧で、寧ろ来世にこの意識が存在しているかも分らない。だが、ねねの横顔はとても幸せそうに微笑を浮かべ、いつまでも強き母であると再確認させられるのであった。蝉に似た、この命どこまで行けるか、母の声はいつまで聞けるか。

短い音を立て、最後の一本が断たれた。


終幕


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