蝸牛の眼 - - - 太陽が燃えるように橙に染まって行く、全て焼き尽くす様な勢いで。縁側から其れを眺め朧気な瞳は閉じられた。 蛇皮線を細い腕で支えながら、かつての豊臣に思いを馳せる。あの笑顔で埋め尽くされた日々は、今正に崩壊しようとしている。弦を弾き澄んだ音色が静かな庭先に悲しく響いた。 「おい、聞いてるのか」 野太い声にゆっくりと名前は瞼を上げると、何度か瞬きし小さく頷く。畳に腰を下ろした清正はふんと鼻を鳴らして、射抜く様に小さな体を睨んだ。 共に徳川に行こう、清正はそう言っているのである。其れはつまり友の三成と争うと言う事。この乱世は裏切りも正当化出来るに違い無い。徐々に落ちて行く橙が、悲しい。 「私は、行かない…こんな世だからこそ信じたいんだよ」 人の心ってのをさ。 蛇皮線が鳴く。己の身を安泰に置きたいなら間違った選択かもしれない。否、心さえ平穏を保てればその身が何処にあろうと構わない様な気がしているのである。名前は口元に笑みを浮かべて、漸く視線を清正に移した。 銀色の髪が何かを考えた様子で揺れる。 音色を奏でる細腕を、清正は悲しそうに見つめた。二人の間に埋めようの無い深い溝が出来ていた、それも随分前から。 「清正…世知辛い世の中だね」 「俺はお前と戦うなんて」 その後の言葉は紡がれる事は無かった。否、覚悟を決めたのかもしれない。 橙は遂に落ちてしまった。辺りは薄暗く視界も儘ならない。頼りは蛇皮線の音色だけ。残りは静かに闇に溶け込んで行く。 「こんな世じゃ無ければ、私達は馬鹿みたいに笑い合えただろうね」 「正則だけだろ馬鹿みたいなのは」 「言い得て妙だ」 名前は一際強く弦を弾くと音を揺さぶって張り詰めた弦は一つ、千切れて緩やかな弧を描いた。 腕から蛇皮線が乾いた音と共に零れ落ちて行く。闇に慣れた瞳で清正は背を丸めた名前に手を伸ばそうとしたが、何故かその手を動かす事が出来なかった。 弦と共に繋がりさえ千切れてしまったように思えたのだ。 「さあさあ、楽しい時間はお終いだよ」 震えた低い声が清正の背を撫でて行くようで、息を飲む。 闇の中を切り裂くように、名前の瞳が大きく開かれ静まり返った姿を捉えると何とも言えない悲しみが波の様に襲ってくる。 黒々とした瞳が濡れそぼってる事を闇は見せない。 友別つ闇夜に消える橙に蛇腹撫で鳴く蝸牛の眼 「おさらばよ、清正…次会う時は敵同士」 溜飲が下がり、落ち着いた声色でそう口にした名前は畳を離れ背を向けた清正に小さく笑いながら漆黒に浮かぶ月を見上げた。 終幕 ← | → |