過呼吸
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冷たい井戸水が並々と桶の中で揺らめいて居る。指先だけ浸ければ痺れる様にそこだけ冷えて行った。名前は縁側で桶の中身を覗きながら楽しそうにその様子を眺める。
名前は仕事が山のようにある政宗の部屋に、桶を抱えながら数分前やって来た。邪魔になると何度も注意したのだが出て行く様子も無く、開け放った襖の先で笑っていた。

水が音を奏でる様子を傍らに、政宗はただ溜まった仕事を片付ける。

「…政宗様も見れば良いのに、可愛いですよ」

名前が見ているのは昨日、お忍びで市を見に行った際見つけた金魚だ。市に出回るのも珍しい金魚は、値も張る物でなかなか手を出せる物では無い。女中の名前に与えたら大喜び、案の定仕事そっちの気でこの有り様である。
彼女が金魚を受け取った日、初めて笑顔を見た様な気がした。今まで口元だけしか弧を描かず、まるで壊れた人形の様な、背筋を冷たくなぞる嫌な顔をしていた。それが今は子供の様に無邪気に笑うのだから、安い買い物だったと思う。

鑑賞用に鯉を飼った事があるが口を開いては閉じを繰り返し、餌を食らう大食漢にしか見えなかった。金魚もまた然り。大して政宗の興味を誘わないのだ。走る筆を休め、名前の様子を伺うもののその視線は金魚に注がれたままであった、実に退屈な女である。

「そんなもの、何が楽しいのじゃ…馬鹿め」

「…政宗様は」

笑顔が消え、ふと細められた瞳が此方を向くものだから政宗は思わず身を固めた。名前はただ井戸水のように冷たい瞳をぱちくりと瞬きさせている。
その指先がやがて、のんびりとした動きで喉までやって来ると小さく口を開いた。

我々もまたこの金魚の様にもがいて居るのを存じませぬか?水が有るか無いかの違いです…呼吸を繰り返しもがき、この世を生きております。それは詰まらぬ物では御座いません。いつでも…我々はもがき溺れて居るのです、それはこの地面を蹴り泳ぐように跳ねています。分かりますか?金魚も人も大して変わりませぬ…溺れて居るのですよ。

嗚呼、名前と言う女はこんな人間だった。ただ冷静に世を見つめ冷え切った瞳を逸らさない。


「わしは違う、貴様等金魚なぞとは違うのじゃっ…わしは龍、天下を取る男じゃ」

「はい…政宗様は天下を取る御方、傍観者とは違います…ですがもがき溺れる事に変わりは有りませぬ」

冷たい瞳が嘲笑う様に細められた。

人は身を翻しても人、そう諭されてる様な気がして苛立った。何故この女は、名前と言う人は、知ってる素振りをするのだろう。全てに絶望した瞳をするのだろう。
ふと桶の中を大人しく泳いで居た金魚が井戸水を持ち上げ、一つ跳ねた。水の音が部屋に木霊して漸く我を取り戻した政宗は口元に不敵な笑みを浮かべる。

「しゃなりしゃなりしか出来ぬ女は実に不便じゃ」

名前の瞳が庭先に逃げる、そこで政宗は取り戻した自身に安堵するのだ。気付かぬ間に呼吸を強く繰り返していた事が情けなかった。


「…黙れ、わしは龍じゃ」

早鐘の様に鳴り続く鼓動に声を吐き出すと、政宗は庭先に視線を逃がした名前を見つめる。肩を上下に動かし、苦しそうに俯いた姿。時が止まったようだった。
瞳孔の開いた独眼はそこに何を見たのだろう。

早々と続かぬ息に過呼吸尾鰭たゆたう理由と心理

「わしは龍…」

今一度呟き、筆を握ったままの拳で机を叩いた。そのままからりと政宗の手から筆が転がる。

点々と墨を散らした。
そして縁側で苦しそうに肩を上下する名前に歩み寄ると、自身の肩でくたりとした羽織りをそっと掛けてやる。

見上げた名前は金魚の様に赤く充血した両目を細めた。

終幕


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