挑む者無き - - - ここ数日、風も生ぬるくじとりとした事で庭の灯篭なんかに苔が青々と根を張るようになった。少しでも襖を締め切り人が立ち入らなければ、畳に青黴が生える。空気を変えようにも心地の良い風が吹かず、ただ生温い気の悪い空気がそこにゆらゆらと佇んで居るだけだ。まるで呪いでも被ったような屋敷の姿に、女中は口を揃えて狐が住み着いたのだと騒いで居た。 初めは相手にもしなかった噂話だったが、流石に自身の部屋にまで古い埃のようなおかしな匂いがし始めて、名前は事の次第を報告する事にした。 優雅とも取れる扇を広げ仰ぐ姿に呆れながら、隣の幸村に視線を向けると困った様子の笑みを返されてしまう。 こんな状態が既に数刻続いていた。名前は痺れを切らして漸く口を開く。 「嗚呼…漸く分かりました、狐とは三成殿の事でしたかっ」 わざとらしく天井を見上げながら言う。慌てた幸村が止めに入ろうと口を開くが、つまらなそうに細めた瞳を向けるとまた困ったように笑うのだ。この優男は共に槍を振り回して居る時も同様に、勝負が付けばそんな表情を浮かべていた。否、力では叶わずとも気迫で負ける気は更々無かった。 優雅に扇をひらひらさせていた三成は聞き捨てならないと言った様子でこちらを睨んで来る。名前の作戦は成功したのである。 「俺が狐なら貴様は猫又だな」 「猫又は長生きした猫を指す言葉、人の身では無理な話です」 「その猫又が名前と言う人間に化けて居るのだろう…」 売り言葉に買い言葉。 「それで、どうするおつもりか…まさか放って?」 探るように漆黒の黒目を泳がせながら首を小さく傾げてみると、綺麗な絵が描かれた扇がはたりと閉じられた。眉間に深い溝を作り、鬼のような形相をした三成の口から大きな溜め息が漏れる。 どうやら三成もこの問題は悩みの一つらしい。最も名前の隣に控えた幸村ははらはらと落ち着かない様子で、二人を交互に見つめて居た。 優男は優男なりに、利口に口を挟まなかった。事の次第を見極めて居るなら更に利口なのだが。 「昨日…俺の部屋に見た事の無い虫が居た、丸く縞模様に似た背で…くそっ腹立たしい」 「三成殿の部屋に黴が生えるのも時間の問題ですね」 「ならば…俺の部屋に黴が生える前に何とかしろ」 再び始まった水と油の背比べ、幸村は次第に二人を見つめながら微笑ましいと感じるのだ。 そしてゆっくりと腰を上げると部屋を閉め切ったままの襖を全て開け放った。賑やかな言い合いが外に筒抜けになってしまう。大人しく黙って居た幸村の行動に三成と名前は同じように顔ごと幸村に向ける。 「これ程賑やかな屋敷に狐など住み着く筈ありません」 狐は陰鬱な気を誘うと申しますが、この屋敷にそのような陰鬱な気などありませぬ。例えこの屋敷に狐が近付いた所で、お二人の気迫に退散するでしょう。負け戦と知って挑む程、狐も忙しくは無いのでしょう。 子供のような笑みを浮かべた幸村に三成と名前は一度顔を見合わせてからすれ違うように別々の所を見つめた。 あやかしも伸ばす手を引き負け戦挑む者無き堅固な護り 「お二人に叶う者など居りませぬよ」 幸村が全ての襖を開け放つと、漸う待ちわびた冷たい勢いのある風が吹き込んで来た。前髪を揺らされながら名前は三成を盗み見ると、何故だか無性に恥ずかしい気持ちになった。 口にはせぬが恥じはお互い様。 終幕 ← | → |