鉛筆を進めていた手がぴたり、と止まる。いや、止めざるをえなかった、というべきか。椅子の背もたれに背中を預け、だらりと気を緩めた姿は猫が大きく伸びをするのと似ている。何か眩しいと思えば、時刻は既に西日が差す時間になっていることに気付いた青年は、立ち上がってすぐ傍の窓のカーテンを閉めた。事務的な机の上には、少し古い型のノートパソコンが一台。その隣に、レジが暇そうに居座っている。僅かな空きスペースの上で、青年は白紙に鉛筆を走らせている。否、走らせていた、のだが、今は鉛筆はお役御免とばかりに転がされている。先ほどまで膝に置かれていた雑誌は、開いていたそのページだけぴょこんと角が折られ、白い紙の上に無造作に放られたのだった。
ふいに、スウっと扉が開く音がしたので、青年はそちらを向く。電気代が勿体無いと自動ドアのセンサーを切ったのはつい最近のことではない。それについて、初めて店を訪れた人がいつまでも開かない"自動ドア風ドア"に不審を抱くだろうと張り紙をすべきだという主張は、青年にとって目から鱗が落ちるものだった。今ではその助言を有難く貰い、引き手の傍には分かりやすく"手動です"と張り紙がしてある。
「シズカさん!」
バタバタと走りこんできた音の主は、その勢いのまま青年に抱き着いた。少し後によろめきながらも、青年__シズカはしっかりとその長身を受け止める。
「徹くん」
「久しぶり! 元気にしてた?」
相変わらずテンションが高いなぁ、と苦笑を交えつつ、シズカは自分より高い位置にあるその頭に手を伸ばして、柔らかな髪の毛を撫で回した。当の及川はまるで犬の如くその手の感触を享受している。
「変わりないよ。徹くんはどう?」
「モッチロン! ちゃんとバレーやってるよ! だから来たんデショ〜」
「それは良かった。じゃあ、今日は買い物かな?」
「うん! いつものやつ!」
「取ってくるから、徹くんちょっと離してね?」
元気よく返事をする及川にうんうんと満足げに頷いたシズカは、大型犬のような及川から手を離す。が、肝心の及川が、シズカから離れようとしなかった。
「徹くん?」
「シズカさん、いいニオイ……大好き」
うっとりとした声で、及川はすりすりとシズカに擦り寄った。
及川は、この小さなスポーツショップの店主に、心底惚れている。
自前なのか、染めたのかは教えてくれないさらさらとしたダークグレーの髪。少し目尻の垂れ下がった、穏やかでどこか色気のある目元。スッと通った鼻筋は日本人離れしていて、肌は透けてしまいそうに白く、きめ細かい。一つ一つのパーツの整い方が、常人とは違う。及川は自分が"イケメン"と呼ばれる部類の顔であることは分かっているが、それとはまったく違う場所にシズカが立っていると思っている。
可愛い女子を追いかけてばかりいた及川の目には、もうシズカしか映っていない。中世的な顔立ちではあるが、しっかり男と分かる。それでも及川には、シズカ以上に綺麗なものがこの世にあるのだろうかと、思えてしまうのだ。
「徹くん、あの、」
「シズカさん、俺絶対シズカさんを不幸にしないから、絶対幸せにするって誓うから、だから俺とけっこ___ 「死ねクソ川!」 __ゴフッ!」
綺麗な飛び蹴りが決まり、シズカにぴったりくっついていた及川の身体は床に沈んだ。
「ったく、急に走り出したかと思えば……」
パンパン、と一仕事終えた後のように手を払った岩泉は、屍の如く動かない及川を丸っきり無視し、店主にぺこりと頭を下げた。
「すんません! コイツがまた迷惑かけたみたいで!」
「一くん、いらっしゃい……あの、徹くん、大丈夫かな?」
「いつものコトなんで」
「そ、そう。一くんも、買い物かな?」
「そッスね。そろそろテーピング切れるんでそれと、あとスプレーと……」
「ちょっと岩ちゃん!」
何事もなかったように会話を続ける岩泉に、ピョンっと及川が起き上がった。飛び蹴りを喰らった腹部を擦りつつ、些か暴力的な_この場合、及川のせいで暴力的になった、というのが正しい_幼馴染に口を尖らせた。
「俺のシズカさんへの愛の告白を飛び蹴りで邪魔するなんて、ヒドくない!?」
「うるせぇクソ及川。シズカさん明らか困ってただろうが」
「そんなことないもんシズカさんは俺に優しいもん!」
「分かってんなら尚更シズカさんに迷惑かけんな」
「まぁまぁ二人とも……徹くん、怪我はしてない?」
穏やかに笑いながら、シズカは二人の仲介に入った。仲が良いほど喧嘩する、を毎回のように見せてくれるこの幼馴染二人には、流石に慣れっこだ。シズカは及川の腕を取り、片腕ずつじっと観察する。そしてちょっと失礼、と呟きながら及川のシャツのボタンを外し、先ほどの飛び蹴りの跡を見た。が、幼馴染は流石に制裁の加減には慣れているためか、及川の腹部には殆どその跡は無かった。先ほど及川が腹部を擦っていたのも、殆ど演技のようなものだったと分かり、シズカはほっと息を吐く。
「俺の店で怪我されちゃ適わないからさー……あれ? 徹くん?」
シャツのボタンを戻しながら、シズカが上の方にある及川の顔を見上げると、端正な顔は林檎のように赤くなり、ぷるぷると震えていた。さながら、小型犬だ。
「っ、シズカさん……」
「ん?」
「お、俺をお嫁にもらって、クダサイ……!」
「いい加減にしろクソ川!」
スパーン、と小気味の良い制裁の音が、再び店内に鳴り響いた。
( 220140928 )
ハイキューやっと全巻買いました。及川のバカっぽい喋り方が書いてて楽しかったです(褒め言葉)