彼が鬱に陥っていることは、目に見えて分かっていて、私はどうしようもなく右往左往を繰り返すばかりだった。話しかければ苛立たせてしまう。かといって、距離をとると彼は自虐的に笑う。まだ付き合いが浅い私たちは、お互いの間にある壁を今初めて思い知って、そのことも私を落ち込ませている。何がいけないのだろう。こんなに、彼の助けになってあげたいのに、その思いばかりが先走って、彼の周りにある見えないバリアに弾き返されるようだった。
 今も広い部屋の中で、会話一つ交わさない私たちは無意味に時間を共有している。ベッドの上にあるカイリューのぬいぐるみは、私が以前ゲームセンターでねだったもので、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細なこの空間には、不釣合いだ。ただ、私の小さなお願いを叶えてくれたのは、確かに彼だった、という思い出を蘇らせた点では、そこに在るという意義はあったと思う。この瞬間の私たちに比べれば。
 指先一つ動かすにもなんだか躊躇ってしまうような時間が一区切りついたのは、彼の大きな溜息のせい。彼は立ち上がって、この空間の出口へ一人で向かってしまう。追いかけようか、迷って、結局彼の背中を見送ることを選んだ。私も考えることが必要だ、と思った。

 そもそも、彼がどうしてこんなことになっているのか、私はその原因を知らない。
 ある日、いつものように夕飯の支度をしていたところに彼が帰ってきて、そのときにはそうなっていた。職場で何かあったのだろうと想像はつくけれど、その上は分からない。
「どうしたの」
「何があったの」
 そうやって聞くことは簡単だけれど、言われた側は、もう、そのことを思い出すことも苦痛だろうから、私は軽はずみにこの言葉を使いたくなかった。
 彼の中で気持ちの整理がつき、彼の方から言ってくれるのを待つべきだと、思っていた。
 けれどこの長期戦はなかなか私にとっても苦しいもので、なにより、彼のことを嫌いになりたくなかった。見切りをつけたくなかった。だから必死で、今までの彼の姿を思い出しては、耐え忍んできた。こんなことで私たちの今までを、これからを、なくしたくない。
 面倒くさいな。厄介だな。どうして家の中にそういうものを持ち込むの。私だって嫌な日はあるけど、家では明るく振舞ってみせてたのに。どうしてワタルは……。本音を仕舞い込んで、私は私自身を騙して騙して、ずっと頑張っている。

 ここまで考えて、最後の糸が、少しずつ、少しずつほどけていく。

 もう限界なのかな、私たちは。
 ただ好きなだけだったのに、大好きだから、一緒にいたのに、それが恋愛というものなのに、自分に嘘を吐き続けて、それでもこの関係を保とうだなんて、破綻してる。

 ……ああ、もう良いや。コーヒーでも飲もうかな。
 私はいよいよ、きっとリビングダイニングに向かったであろうワタルのことを忘れて、立ち上がった。

 ドアを開けると、ワタルはソファに、膝を抱えて座っていた。テレビは微かに音を流していて、それは無音をなくすためのものに過ぎないってことが分かる。
 シッポウシティから届くコーヒーは、もうスプーン一杯もなくて、それがまた私を落胆させる。マグカップの半分ほどにしかならなかったコーヒーを持って、私はワタルの隣に座ろうか、それともベッドルームに戻ろうか、迷った。結局、少しお行儀の悪いワタルの座り方を真似てみた。

「……あのさぁ、考えたんだけど」

 辛口のコーヒーは、私の中に在る遠慮とか、配慮とか、慎みとか、そういうものを消していったようだった。ワタルの返事を期待せず私は話を続けた。

「ワタルはさ、私はなにがあったか知らないから、一様にもいえないけど、きっと大変だったんでしょう。大変なんだろうね。でもね、私もね、大変なの。女の子ってね、毎日生きてるだけで大変なの。電車で痴漢にあったりとか。職場で同僚の悪口に付き合ったりとか。お互いになんとも思ってないのに、可愛いって言わなきゃいけないし。もうそれだけでストレス溜まるの。私だって人並みに疲れてるんだよ。だけど、私はそれを一度もこの家に持ち込まなかったよね。少しは滲み出るときもあったかもしれないけどさぁ。私は、抑えてたの。ワタルに嫌な思いさせたくないし。我慢してたの。我慢できたよ。だって、ワタルがいてくれるから。それだけで、私幸せだったの。それで良かったのよ。……うん」

 こんなに言いたいことを全て喋ったのは久しぶりで、私は興奮していた。落ち着けるためにまたカフェインを投下して、そうすると、もう、ワタルの顔を見ることも、出来なかった。言ってしまった。やってしまった。

 ……ああ、もう。口にしてみれば、彼が未だ好きだと思えた。好きなの。好き。別れたくない。
 急にシフトチェンジした心が、私をワタルへ寄りかからせた。部屋の中は冷たいのに、ワタルに触れているそこだけが、暖かい。

「……ごめんね」
「面倒くさくても良いって、言葉にしていえない女でごめんね」

「……痴漢って本当なのか?」

 久しぶりに聞いたワタルの声は、なんだか変にカスカスしていて、それはきっと、彼が久しぶりに声を発したからだ。

「うん」
「なんで、言ってくれなかったんだ?」
「だって、いつもワタルの帰りを笑顔で迎えてあげたいから」
「……俺のことも考えてくれよ。嫌だろ。彼女が他の男に触られてるとか」

 私はワタルがファンの女の子にベタベタ触られたり、一緒に写真を撮っている様子を思い出した。

「うん、嫌だわ。ごめんね。次から言うね」
「ああ。……リーグでさ、」
「うん」
「本部と、少し言い争った」
「……うん」
「有能な人間だってことは分かってるんだけど、でも、譲れなかったんだ。……それで、バトルにも身が入らなくて、上手く行かなくて。チャンピオンってこんな難しいことだったのか、って、思い知った」
「……そっか」

 そっか、と私はもう一度繰り返して、横を向いて、ワタルも同時に横を向いて、目が合った。
 そして、ごく自然に、私たちはキスをする。こんなにも簡単なことだったんだ、ってくらい、呆気なく。瞼がぱちぱち動いて、新しく生まれ変わったような心地。

「痴漢されたら、言えよ」
「うん」
「呼んだらすぐ行くから」
「分かった」


( 20121103 )
琉希様リクエスト「ワタル」
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