宗谷冬司は東京の将棋会館へ来ていた。
どういった理由かは分からないが、宗谷の妻は神宮寺に呼び出された。しかし宗谷はあまり外に出たがりではないし、宗谷の妻もそれは同じ訳で、ましてや京都から東京へ、大切な妻を一人で行かせるのは気が進まなかった。どうせそんな大したことのない用事だろうから、わざわざ東京まで行くことはないと諭したのに、変なところで頑固で義理堅い妻とは口論になってしまい、挙げ句の果てに宗谷が近所に外出している間に荷物をまとめ、家を出ていってしまった。携帯にかけても、繋がらない。
それが午前中の出来事だった。
四苦八苦しながら新幹線のチケットをなんとか手に入れた宗谷は、ようやく妻を迎えに来たというわけだ。
建物の中に足を踏み入れ進んでいくと、流石に宗谷を知らないものはいないわけで、不躾な視線を受けた。それを介さず、宗谷は今回のそもそも原因である神宮寺がいるであろう部屋へ歩いていった。思えば、シズカと喧嘩などしたことはなかった。とても穏やかな時間を互いに過ごせていた筈だった。
『ッ、宗谷さんにとってはどうでも良いかもしれないけど、私は違うんです!!!!』
『そういうことを言ってるんじゃない』
『じゃあなんですか!
__っ、私……宗谷さんの考えてることが、分かんない……』
宗谷は初めての口論や妻の悔しげな表情を思い出しながら、勢い良く襖を開けた。テレビを睨みつけていた神宮寺は、無意識に怒りと苛立ちを露わにしている宗谷を見てニヤリと笑った。
「おー、宗谷」
おー、じゃない。宗谷が黙って神宮寺を睨むと、神宮寺は折れたように言った。
「わあーってるよ。シズカちゃんだろ。えらく泣いてたからな。ひとまず島田に預けた」
「……泣いて?」 ていうか、なんで島田に。
「ああ」
普段と違い必要以上に喋ろうとしない神宮寺に宗谷は眉をひそめたが、まさにその神宮寺のような態度は普段の宗谷そのもので、それこそが口論の原因の一つであるということに、宗谷は気付いていない。
「ッ、宗谷!?」
襖の向こうには読み通り島田がいた。島田『しか』いなかった。島田は驚くと同時に、最高にバツの悪そうな顔をした。
「あー……大変言いにくいんだが、シズカはさっき出ていったんだ。30分くらい前だったか……お前に謝りに行く、ってな」
あまりの出来事に、宗谷は困惑している。
「なんか……なんだ、すまん」
つまりは入れ違ってしまったのだ。
宗谷は部屋に入り、胡座をかいて座り込んだ。今日は、めまぐるしく動きすぎた。
静かに溜め息を吐き、スーツの内ポケットからアイフォンを取り出した。
『……宗谷さん……?』
ああ、やっと繋がった。電話越しに不安が伝わるような声だった。そんな声を出させたかったわけじゃない。
「今、どこ?」
『えっと……東京駅で、切符を』
「もう少し待てる?」
焦ったような。上擦ったような。
嗚呼自分は将棋以外にこんなにも大切なものが出来ていたのか、と。ふと実感した。
「今、会館にいるから。すぐそっちに行くから」
『会館、に……?』
「……シズカ……愛してる」
通話を切ると、島田は気まずそうに目を逸らす。口元に手をやっている。場を取り持ちたいときの島田の癖だ。宗谷が黙って部屋を出ると、廊下には神宮寺が立っていた。
「よ。仲直りはできたか?ん?」
「……シズカはもうここを出てました」
「うそっ」
宗谷はいよいよ目の前の年寄りを殴ってやりたい衝動にかられたが、そんなことよりシズカが優先だと言い聞かせ、自分を抑えた。タクシーを捕まえ、東京駅へ向かう間、シズカの言葉を繰り返し、考えていた。
__『宗谷さんの考えていることが分からない』
もしかして自分は今までの生活を勝手に上手くやれていると思っていたが、シズカはそうではなかった? ずっと不安を感じていた?
仮定は確信へと変わりつつある。
・ ・ ・
「あちゃー、やっちまった」
がしがしと頭を掻く神宮寺に、島田は呆れた溜め息を送る。
「会長……シズカが出ていったの気付かなかったんですか」
「やー失敗失敗。宗谷怒らせちったな」
「宗谷としちゃそりゃあ気分が悪いでしょうに……ていうか、シズカをこっちに呼んだの会長ですよね?」
どんな用で呼びつけたんです?
まるで咎めるような島田の口調に、年相応ではないむくれた子供のように返す神宮寺。
「この前さー、将棋会館(ここ)の掃除してたらさ____」
・ ・ ・
「……宗谷さん」
騒がしい土曜日の東京駅、小さなバックと大きな紙袋を持った妻が立っていた。
宗谷は何も言わずに抱き締めた。
「……ごめん。僕の言葉が足りないせいで」
「僕は君を不安にさせてたことが、今更分かったんだ」
「心配したよ。一緒に帰ろう」
これまでなく饒舌な宗谷にシズカはひどく驚いた、__そして、
「私も……私もごめんなさい。勝手に家を出ていったりして。宗谷さんの傍に置いて頂けるだけで充分だったのに。我が儘な妻で……ごめんなさい。でもどうしても欲しかったの」
持っている紙袋に視線を落とす。
「……宗谷さんが今まで活躍してきた証。雑誌の切り抜きとか、DVDとか、たくさん。神宮寺会長はわざわざ私が欲しいだろうからって、捨てる前に呼び出してくださったんです」
嗚呼__
愛しくて、仕方がない。
「昔の僕より……今の僕を見て。
……なんてね」
真っ赤になった妻を、宗谷はまた強く抱き締めた。