「え、それ以来話してないの?」
「話してないっていうか、だって……受験で忙しいだろうし」
「でも、この前うちに来たよ」
「えっ」

 思わず、クッキーを摘もうとした手がぴたりと止まる。
 サーヤはそれを見ておかしそうに顔を綻ばせた。

「お兄ちゃんと勉強するために来てたの。でも久しぶりだったから、お兄ちゃんもけっこうびっくりしてたなぁ」
「ふーん……」

 なんとなく、誤魔化している。でもそれをサーヤに見透かされていると思った。恋する乙女の観察眼は鋭いのだ。いつもより意地悪い顔で、それでもアイドルみたいなかわいらしい顔で、サーヤはにやりと笑った。


 __1ヵ月前、榛葉ミチルさんにキスをされた。
 その時は、あほみたいに胸が痛いのが嫌で逃げ出した。腕を突き飛ばして逃げた瞬間の、榛葉さんの顔は未だに離れない。だって、告白も、なにもないのに、あんな___急に!
 風船の破裂のような唐突さで、私のファースト・キスはあっさり奪われ、さらに悔しいところには、以来、私は榛葉さんのことを四六時中考えてしまっているのだった。これは恋だろうか。私は、あんな無理やりされたキス一つで、榛葉ミチルという人に惚れてしまったのだろうか。

 というところで、迫るのはバレンタインデーだった。


「シズカはさ、ミチルさんのことを、さ」
「う、ん」
「ミチルさんのことを__好きかどうか、悩んでるんだよね」
「端的に言えば、そうなるね」
「ううーん」

 サーヤが腕を組んで唸っている。
 彼女は、どうやらボッスンに素敵な恋をしているようで、無論私は応援している。ボッスンは鈍感だから、世間一般の恋愛とは少し違うかもしれない。
 でもボッスンのためにやきもきしているサーヤは本当に可愛くて、ボッスンにやるのは勿体無いとも思う。父親の立場だ。

「例えば、ミチルさんと眼が合うとドキドキするとか」
「気まずくて合わせもしてないもん」
「自分の言いたいことがうまく伝えられないとか」
「だから、会ってもないってば」
「……うーむ。えーっと、えーっと、……四六時中、ミチルさんのこと考えちゃうとか」
「そ、れは、……ある、かも」
「私がさっきから、"ミチルさん"って呼ぶのを聞いて、ちょっとやきもきしてる、とか」

 サーヤは、まるで天使みたいに可愛いけど、今日は少し意地悪だ。

 私が口にマシュマロを詰めたようにもごもごと否定するのを、そんなにこにこと見つめるのは、意地悪だ。

「決定だね。うん、決定だよ」
「う、う……そうなの?」
「そうだよ! そうと決まったらバレンタイン! シズカ、ミチルさんはほんの少量でもお酒に弱いからそれはNGで……」
「サーヤ、でも榛葉さんは料理が上手だから手作りしない方が良いんじゃ」
「なに言ってんのよもー。いい、シズカ。榛葉さんは一回シズカに拒否されて、絶対落ち込んでるはずよ。でもシズカがチョコレートをくれたら、それは、手作りの方が嬉しいでしょ!」
「言ってることがよくわから 「良いから! 黙って決める!」 ……はーい」

 ぽいっと投げられたレシピ本をパラパラと捲る。 
 結局、無難なクッキーを、来週の日曜日、サーヤと作ることになった。






 ・ ・ ・




 月曜の朝。
 バレンタイン当日は日曜だったために、学校では今日がバレンタイン当日になるであろうと予測される。
 私はといえば、しっかりラッピングされたクッキーを、鞄に入れているのだった。
 下駄箱周りでは、チョコを持ってそわそわする女子生徒の姿も見受けられる。

「おはよっ」
「あ、サーヤ」
「ちゃんと持ってきた? 忘れてない?」
「……忘れてない、よ」
「下駄箱に入れるんじゃなくて、ちゃんと渡さないとだめだからね」

 まったく、サーヤ様にそういわれると逆らえない。





 しかし、私はなかなかの意気地なしだった。
 いつ渡そう、いつ渡そう。そわそわと考え事をするうちに、時間が過ぎていってしまったのだ。帰りのHRを迎えた頃には、サーヤにじっとりと睨まれることとなってしまった。結局腕を引っつかまれ、いつしか3−Bの教室へ辿りついた。
 さすがと言うべきか、安形先輩はすぐサーヤの姿に気づいた。

「おお、サーヤじゃねぇか。どうしたんだ」
「あのね、この子がミチルさんに用があって、呼んで欲しいんだけど」
「お前じゃなくて、その子が?」
「そうだよ」
「……そうか。ミチルならさっきも呼び出されて……おほっ、ちょうど帰って来た。
 
 おーい、ミチルー」

 安形先輩が手を振った先。
 私は振り返れない。

「安形じゃないか。どうかした?」

 きっとその手には、誰か可愛い女の子のチョコレートを持っているのだろうと。

「なんか、サーヤの友達が、用があるってよ」
「ふぅ、君もか……まったく今日は子猫ちゃんからの呼び出しが多く、て」




 見ないで。
 私は今、酷い顔をしてる。




「きみ、は」
「あ? ミチル、知り合いか?」

 逃げ出したい。でも逃げ出したら、また同じことになる。どうしてこんなにも__苦しい。

「あ、……あのときは、ごめんなさい、突き飛ばしてしまったりして」
「いや、俺の方こそ、本当に申し訳ないと思っていたんだ。……自分でも、自分が信じられなくて。言い訳がましいけど、女の子に……あんなことをしてしまったのは初めてだったから」

 君から距離を置かれて当然だと思ってたよ。
 榛葉さんの声は、どこまでも優しくて、ずるい。

「あれから、なぜか、四六時中、榛葉さんのことを考えてしまって、分からないんです、自分でも__あんなことくらいで」
「あんなこと、じゃないだろう? 君の表情を見たら分かったよ。

「       」


 最早言葉は口を出ない。感情線上に響くだけ。



「シズカちゃん__聞いてくれないか。俺は、好きでもない子にキスをするほど器用じゃないんだ」
「し、」


「……好きだ」 


 二度目のキスは、恋の味だった。




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