この前の出会いがあってから僕は少し変だ。頭の中の駒が散らされたわけじゃなくて、ちょっと揺すられてずれちゃった、って程度。何が原因って分かりきっている。シズカさんだ。
 姉の氷のような鋭くて冷たい手を思い出すけれど、同時にそれと真反対の、華が香るような柔らかくて暖かい手を思い出す。姉の手を握ったことなんてないのに、並べてしまうのはなぜだろう。そう、鋭くて冷たい手は僕の頬を叩いただけだ。


 対局が終わって、いつもの通りあの町へ帰ろうとする途中、シズカさんに出会った。僕が気づく前にシズカさんは僕の方へ歩いてきていた。

「桐山五段。お久しぶりです」
「あ…えっと、こんにちは」
「対局ですか?」
「あ、はい。そうです」
「お疲れ様です」

 彼女が、柔らかく笑う。対局ではそこまで全力を出し切ったわけではなかったけれど、でも疲弊していたところが、すうっと取り除かれた気がした。細い黒髪が合わせて揺れる。

「あの…シズカさんも、将棋会館(あそこ)に行くんですか?」
「ええ。またしばらく京都に戻るので、会長に挨拶を」
「戻る?」
「私、今の時期は東京(こっち)で一人暮らしをしてるんです。兄さんが忙しい時期は家に一人になってしまうから、なにかあったときのために、兄さんがマンションを借りてくれたんです」
「へぇ…」
「ほら、あそこのマンション」


 シズカさんが指差したのは、本当にすぐ近くの、灰色のコンクリートのマンション。
 宗谷名人は、そういえば京都に住んでいるんだっけ。


「将棋会館もすぐですし、病院も近くなので安心なんです」
「病院?」
「私、生まれつき色んなところがあまり良くないんですよ。あ、でもそんな深刻なものじゃなくて…ええと…走れなかったり、人より動けない身体なんです。だから、高校にあまりいけなくて」

 彼女の提げている制鞄が、あまり使われたように見えなかったのは、そのせいだったのか。

「出席日数も不安で…進学出来るか分かんなくて。あはは。本当はせめて定期テストで単位をとるために勉強しなきゃいけないんですけど、机に向かってたら、いつの間にか病院にいて…」



 彼女は笑っていたけれど、

 彼女だって、平穏な生活をおくりたかったはずだろう。電車に揺られて登校して、授業を受けて、友達とお弁当を食べて、そんな生活をしたかったのに、生まれつきのそれだけで、当たり前のことができない。


 僕は___僕だってそうだ。ある日突然父が死に、母が死に、妹も___全部、奪われて。平穏な生活なんて、考えたことも、考えられるときもなかった。

 ただそこにいさせてもらうために、指し続けるしかなかった…。




「桐山五段? あの、ごめんなさい、なんだか変な話をしてしまって」



「あ、…いえ、その、全然変じゃないです。むしろ聞けてよかった!」


 彼女の陽が陰んでしまったようで、僕は慌てて大声を出す。すると、まるい瞳を更にまるくされてしまった。

「あ、いや、べつに……えーっと、えっと、僕はあまり…同年代のひとと、話をしないんです。だからシズカさんと話せて嬉しいというか、シズカさんのことを知れて嬉しいというか」

 わたわたと、言葉を吐き出す度に手の中のペットボトルのお茶が波打つ。シズカさんは、くすり、と笑った。

「桐山五段は、素敵な方なんですね。私も、もっと桐山五段のことを知りたいです」

( どくり、ついでに心臓も脈打った )


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