観光名所として称えられる天国・桃源郷の中には、清水を生む美しい泉が在った。高価な薬品作りには欠かせないそれは、巨大な瓶いっぱいに貯蓄し、常備していたのだが、それが切れたことに気づいたのは今朝、いつもの様に美女に殴られ、地面に腰を打ちつけた白澤__ではなく、そんな彼を哀れな目で見据える桃太郎だった。
 近頃は助手姿も板についてきた桃太郎は溜息を大きく吐きながら、瓶の中身が空になってしまったことを白澤に報告した。泉は、桃源郷の中でも入り組んだ場所にあるため、口頭で説明するのは面倒くさい。というわけで、極楽満月をしばし桃太郎に預け、白澤が泉に向かっている次第である。

 仙桃のむせ返るような匂いを抜け、山腹の麓の小さな穴の前へ着く。泉の入口は他者を寄せ付けないためなのか、小さく分かりづらい。白澤も身を屈めながら、その穴へ片足ずつ入って行った。
 泉の周りにも桃の小さな花が咲いており、微かに匂いを撒いている。木々の隙間から差し込む光が、泉の神聖なムードを駆り立てている。清水というだけあって、この水は、簡単なものであれば、浸すだけで怪我や病気を治してしまう。背負ってきた瓶を置き、さきほど痛めた腰を浸すために泉の中へ足を踏み入れれば、他の細かな傷も修復され、腰の痛みは嘘のように消えていくのだった。

「ふう……極楽だねぇ」

 一息を吐いた白澤は泉から上がると、身体を拭いて、本来の目的である瓶を泉に沈めた。瓶を持ち上げようとすると、驚いたことに、重くて持ち上がらない。

「うっ……な、なんで。前までは持ち上がったのに」

 以前ここに来たのがどれほど前かも思い出せない白澤は首を捻りながら、これは神獣の姿でないと持ち上げられないと判断した。そして溜息を吐きながら、腰を鳴らしたところで、ふと白澤の目に、泉の向こう岸にある人影が目に入った。

 この泉は言うなれば秘境であり、天国の住人でも知る者は殆どいない。よって、この場所で誰かと遭遇したことはない。なにとなしに、その人影に興味を持った白澤は、瓶を沈めたまま、泉の中を歩いていった。頭の中では、可愛い女の子だったらどうしよう、だなんて煩悩で溢れかえっている相変わらずの軽薄ぶりである。

「おーい、おーい!」

 どうやら岸に座り、足だけを浸らせているらしい。白澤の声に、その人影が振り返った。
 そして、白澤は、息を呑んだ。



 そこにいたのは女__しかも、白澤が想像していたような足はなく、光に反射する鱗を持ったヒレのある、人魚__だった。泉に染まったような色の長い髪を、白い指で梳いている。白澤の声に振り向き、その存在に気づいたのか、驚いたような目を白澤に向けていた。
 数多くの女性と出会い、その数には自信がある白澤だが、この人魚ほど美しい女は見たことがない__一瞬で、そうとさえ思えるほど、心を奪われていた。

「君は……」

 人魚は、白澤の声にひどく怯えているようだった。
 その理由を、白澤は知っている。漢方の材料としても使われる人魚の肉や鱗__昔から、人魚は不吉な存在とされながらも、欲にまみれた人間の標的にされる種族だった。『あの世』でもそれは共通である。存在していることにはしているのだが、個体数も少ない彼女たちは、自分たち以外の種族との関わりを断ち切り、誰も知らない秘境に暮らしているという噂がたっていた。

「怖がらないで。僕は白澤。大丈夫、君に危害を加えたりはしないよ」

 白澤は少しずつ、人魚の方へと足を進めていった。

「君の名前を、教えてくれないかな?」

 もしこの場に、件の補佐官がいたならば胡散臭いと一蹴しそうな笑顔を、白澤は人魚に向けた。
 人魚は白澤の目をじっと見据える。パシャリ、とヒレで弾かれる水音が、沈黙の中に響いた。

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