夏だ。
京都の夏は、暑い。銀閣寺の傍にある、普段は静かな宗谷邸にも、夏の訪れを告げ知らせるような強烈な熱気が舞い込み、蝉の声が響いていた。
シズカははしたないとは思いつつも、バタバタと服を仰ぎながら、中庭で洗濯物を干していた。熱い空気の塊がシズカを取り囲むようだった。まだ午前中だというのに、こんなに暑いなんて、午後はどうなってしまうのだろう。シズカは甚平を広げながら、そんなことを考えていた。
彼女の夫である宗谷冬司は、恐らく自室で将棋盤と向き合っている。宗谷が、強すぎる冷房を嫌っていることを彼女は知っている。冷房をつければ確かに涼しいのだが、この家の中では扇風機が回る音しかしなかった。冷房は身体にも良くないし、シズカも宗谷の考えには賛成だった。ただ、最近は室内での熱中症、なんてものも流行っているらしい。妻として、夫の健康を気にするのは当然のことだ。だから、数時間に一度、部屋に様子を身に入ることは許して欲しいところだった。
洗濯物を干し終えたシズカは、いつもの通りお茶菓子とピッチャーに入った冷たい緑茶を持ち、宗谷の自室へと向かった。朝食が終わってから3時間と少し経っていた。ノックをするために一度盆を床に置いたとき、襖が開いた。気配で分かったのだろう、襖の向こうには相変わらず無表情の宗谷が立っていた。
「飲み物は無くなってませんか? それから、お菓子を少し……」
「ありがとう」
宗谷が踵を返す。2Lのペットボトルは半分しか減っていなかったが、温くなっていたため、シズカはタオルの上にピッチャーを置いた。その傍に、お茶菓子として持ってきた羊羹を並べる。代わりにペットボトルを持ってシズカは立ち上がった。そして部屋を出て行こうとしたのだが、宗谷は、それを制した。
「僕が、持って行くから」
「え、でも……」
半ば強引にシズカからペットボトルを奪うと、宗谷はそのまま部屋を出てしまう。シズカは慌ててその後ろを追いかけた。
「冬司さん」
呼びかけても、宗谷は黙ったままだ。
冷蔵庫にペットボトルを入れ、宗谷は更に冷凍庫から保冷材を数個、取り出した。
そして、それをシズカの頬に、当てた。冷たさで、シズカが一瞬びくりと身体を震わせる。
「っ__!」
「顔が赤い」
「……え?」
「熱中症」
保冷材を持っていない手で、宗谷はシズカの腕を引いて、歩いていった。着いた先は、普段二人が寝室として利用している部屋で、シズカは毎日布団を干しているのだが、今日はまだ、敷かれたままになっていた。
宗谷はそこでやっとシズカの腕を放し、冷房のスイッチを入れた。生温い空気だった室内に、途端に冷風が吹き込まれる。室内の温度は急速に冷えていったが、シズカの宗谷への疑問は増えていくばかりだった。
「飲み物を持ってくるから」
「え、あの、」
「室内でも熱中症になる。特にうちは暑いし」
言い残して、宗谷は部屋を出て行った。
部屋に一人残されたシズカは、宗谷の行動や言葉を思い返して、それから自分の頬に手をやった。すると、火照っているような温度が手の平に伝わり、もしかして自分の方が、この暑さにやられてしまったのかとようやく気づき始めた。
気づいた途端に、眩暈がし、シズカは布団に倒れこんだ。心臓がバクバクと激しく動き、起き上がろうにも起き上がれない。目の前がちかちかと瞬いた。
「シズカ!」
襖が開き、不自然に布団に倒れこんでいるシズカを見た宗谷は、声を荒げ、慌てて妻に駆け寄った。顔が赤いということは、日射病だ。そう判断した宗谷はゆっくりとシズカを抱き起こし、首に保冷材を巻いた。それから脇の下や足の付け根にも保冷材を当て、スポーツドリンクの蓋を開けた。
「飲める?」
「は、い」
「ゆっくりで良いから」
お世辞にも、宗谷邸はあまり涼しいとは言えない。それは宗谷が冷房の風をあまり好いていないからで、シズカがそれを我慢しながら家事をこなしてくれていることを、宗谷は知っていた。それが今回のことに繋がってしまった。宗谷は強く唇を噛んだ。
シズカは妻として殆ど欠点のない完璧な女性だが、唯一の欠点と言えば、自分の身体に関しては無頓着なのだった。宗谷からすれば、危なっかしくて仕方がない。
自分の身体に寄りかからせながら、団扇をパタパタと仰いでいると、先ほどより幾分かはしっかりしたシズカの目が、宗谷を見た。
「あの……私……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「冬司さんの時間を奪ってしまいました」
「将棋より君の方が大事だ」
それを聞いたシズカは、目をぱちぱちとさせて、驚いたような表情を見せた。それから、恥ずかしそうにはにかんだ。
「今日は、記念日ですね」
「……何の?」
「初めて、私が、将棋に勝てました」
嬉しそうに宣言する妻が愛らしく、宗谷は彼女の小さな身体をそっと抱きしめた。
( 20120806 )