その日は私たちの記念日で、それでも後藤には(もちろん)断れない仕事があって、そして11時までには終わらせると言い残して、後藤は朝、いつものように仕事場へ行ってしまった。別段それを悲しいと思わなかった、そう言い切れば嘘になる。まったく悲しくなかったわけではない。そうじゃなくて、それはいつものことで、なんだかもう慣れている自分がいるのだった。
 忙しいのは知っている。すごい努力を重ねていることも知っている。彼の仕事にどうこう口出しはしないし、むしろ彼がいる場所は彼自身を高めるものだろうし、応援している。応援しているというのはつまり、融通が利かないこの仕事に就くメリット_恋人らしいことはあまりできないということ_を甘受しているわけ。

 この日常を壊そうとは思わない。
 約束は11時だ。私は、仕事を終えた後藤を迎えに行きたいと思い立って、家を出た。とても寒い冬の晩のことだったと思う。




 人の出入りも少ない、仕事場_つまり将棋会館だ_の前で待つ。雪が降ってきたので、屋根の下に入らせてもらった。これくらいは許されるだろうか。深深とまではいかないが、おもむろに雪が山に成っていく気がした。
 11時をまわった頃、中から人が出てきた。背の高い、痩せた男性だった。その人は私を見るなり訝しげな目をして、(そりゃあそうだろう、だって私完全に不審者だもの)ゆっくりと近づいてきた。後藤と同い年くらいかもしれない。

「あのー…失礼ですが、ここになにか用事が?」
「ああ、ええと…人を待っているんです」
「ここで待ち合わせを?」
「そうです。11時に、ここで、」
「寒くはありませんか? なにも外で待たなくとも、中に入っては?」

 それは魅力的な提案に思えた。40分近くこの雪の中待っていたのだから。手袋をしてくるべきだったと舌打ちしたくなるほどに、指先は冷えていたから。マフラーに顔を埋めても、それ自体が最早暖かくなくなってきたから。
 私はその提案に甘えようかと判断をしたのだけれど、その必要はなかった。次いで、そこから出てきたのは後藤だったから。




 白い息を吐き出しながら、後藤は私の姿を見るなりつかつかと歩いてきた。威圧感で雪が溶けそうだ。

「シズカ。なんでいるんだ」
「あの…ね、えっと、後藤を…迎えに行きたくて、その」

 悪いことをしたつもりではなかったけれど、高圧的な態度に押されて私の口からは「ごめんなさい」と出た。後藤の視線は、私の隣の、さっきの男性に向けられる。ああそうか、同業者さんなんだ。そりゃあそうよね、ここから出てきたんだものね。後藤は、無言で、私の腕を掴んだ。
 その男性(ひと)の存在を無視するみたいに。

「冷え切ってるじゃねぇか」
「つい早めに来てしまいました」

 片言に喋る私に後藤は溜息をついて、自分のコートを脱いだ。それを、私の肩に掛ける。後藤の体温がひどく心地よかった。

「タクシーが来るまで着てろ」
「…はい」

 それで後藤は寒くないの、とか怒ってる?とか、聞きたいことは色々あったけど、腰に回された手の感触がやたらと嬉しくて、タクシーが来るまで私は心底、今日という特別な日を頭の中に刻んでいた。



( 風邪でも引いたらどうするんだ、バカヤロウ、 )

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