きぃん。
ぱたりと落ちる、白い腕。
作り物みたいに透き通ったそれは、腕と言うにはあまりにも細い。
僕は酷い耳鳴りの中、ぼんやりとそれを眺める。
滑らかな皮膚を数本の歪な線が横たわり、その肉の盛り上がった部分が陶器のような腕の嘘臭さを助長していて、僕はそれを薄くなぞった。
きぃん。
その腕が、ぴくりと動いた。
「ねぇ、まさきくん」
「…なんだい、ゆきこ」
甘い声が鼓膜を刺激する。
きぃん。
フローリングに寝転がったゆきこ。
その傍らに座っている僕。
妙な、光景。
「あのね、」
「うん」
「あのね、あのね、」
「なぁに?」
「すきだよ」
ふふふ、と頬をあかく染めて笑う。
そんな彼女があまりにもかわいくて、かわいくて、くしゃりと頭を撫でてやる。
僕は込み上げる愛しさが抑えられなくなって、さらに目元にキスを落とす。
「僕もだよ、」
「ほんと…?」
「うん、だいすきだよ」
「あのね、あのね、」
「うん」
「わたし、まさきくんがすきすぎておか、おかしく、なりそう、なの」
がくん、と唐突に襟をひっぱられてバランスを崩しかける。
きぃん。
どん、とフローリングに手をついてなんとかゆきこに覆い被さらずにすんだ。
ゆきこは、わなわなと目を見開いて懇願するような表情を浮かべたかと思うと、ふ、と、堰をきったように大声をだして泣き出した。
「まさきくん、まさきくん、まさきくん、まさきくん、」
ゆきこはただひたすら僕の名前を繰り返した。
何度も何度も、確かめるように、言い聞かせるように、何度も。
間もなくゆきこは過呼吸になり、それでも僕の名前を呼び続けていたので、僕は自らの唇で塞いでおさえた。
離してやると落ち着いたのか、肩で息をしながら潤ませた大きな双眸で僕を見やった。
彼女はぽろぽろと透明のガラス玉のようなきれいな涙を零しながら、僕を引き寄せ僕の胸に頭を寄せる。
震える小さな肩をそっと抱き、優しく撫でるとゆきこは僕の背中に腕を回した。
「大丈夫だよ。ゆきこ、僕はどこにもいかない。ずっとずっとゆきこのために僕はいるよ。ゆきこのことがだいすきなんだ。」
小さな子供をあやすように大丈夫、と繰り返し力強く抱き締める。
するとゆきこは長いまつげで縁取られたその目を閉じて、僕に身を任せる。
きぃん、きぃん。
いつからだっただろうか、彼女は壊れてしまった。
人としての生活を捨てた彼女に残ったのは愛情と狂気だった。
ゆきこを手放してしまうのはとても容易い、そんなことはわかっている。
手放してやることが何よりもこゆきのためだということも。
きちんとした施設に入りきちんとした治療を受け、そうしたらきちんとした生活に戻れる。
僕のいない生活に。
きぃん。
そんなの、耐えられない。
手放すことなんてできないんだ。
周りからみればゆきこは僕を食い物にしているんだろう。
だけど、違うんだ、ほんとうは。
きぃん。
ゆきこを解放してやれるのは僕だ。
ゆきこを自由にしてやれるのは僕だ。
きぃん。
ぼくはそれを敢えてしないでゆきこを手元に置いている。
僕を求めてくれるゆきこを突き放せないとかそんな優しさからなんかじゃない。
きぃん。
僕は僕がゆきこを求めているから放してやれないんだ。
きぃん。
僕がゆきこに依存しているんだ。
きぃん。
――だからせめて、ゆきこに精一杯優しくする。
きぃん。
僕のある力すべてを使ってゆきこに優しくする。
きぃん、きぃん、きぃん。
愛しいゆきこの髪を撫で、優しく優しく抱き締める。
あいしてる、僕は涙を孕ませた声で囁く。
そうすればゆきこは安心したように笑ってくれて。
ああ、愛しい。
きぃん、きぃん、きぃん。
耳鳴りは激しくなっていく一方だ。
でもそんなことよりただゆきこが愛しかった。
きぃん、きぃん、きぃん。
かしましい耳鳴りは止むことを知らず、どんどん大きくなっていく。
これは僕の、僕への警告。
正しくて憎らしくて愛しい、僕の正気が発している、警告。
「あいしてるよ、ゆきこ」
狂った僕らへ、最後の。
警告
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