ふわり。
桃の花びらが舞う、中庭。ここが学校の中で私の一番のお気に入りの場所だったりする。
2つの校舎と渡り廊下で挟まれた正方形の敷地の真ん中には、小さく曲がりくねった桃の木がはえている。そこは、白い四角い学校のなかで、異様なまでに柔らかい空気を纏っている不思議な空間だった。
3月10日。今日は卒業式だ。
私は第3学年で、まぁ、つまり、私の高校3年間も今日で終わってしまうわけで。
今は只、淋しさが身体中を支配している。ぼんやりと胸に穴が空いているような気さえするけれど、それは所詮今そんな気分になっているだけで、どうせこの後のクラスの卒業パーティーに出たら忘れちゃうんだろう。
そんなことを思いながら、私は中庭に足を運んだ。
中庭に出ると風はまだ冷たく、桃の木は小さな花をゆらゆらと揺らしていた。
もうここには来れないのか。
そう思うとなんとなく淋しくなってくる。
入学式で見かけたときからずっとなんとなくすごく好きだったこの場所は、やっぱりなんとなくたくさんの思い出があったりした。もう覚えてないものもたくさんあるんだろうけれど。
でも一番多く思い出されるのは、あの人のことだ。
いつもここで、あの人のことばかり考えていたから。
私には、すきな人がいた。
8歳年上の、178センチメートル。
数学の、先生。
何がすきだったのって訊かれたら、わからないって答えるだろう。本当にわからないからだ。
特別何がすきとか、ないんだ。
ただ、あの人の声がすき。数字を、記号を発音するときの楽しそうなイントネーションもすき。
チョークを持つ手が、教科書をめくる手がすき。
笑うとくしゃってする頬がすき。
机をコンコンって叩く癖がすき。
全部全部、すき。
すき、だった。
どんなにすきだったとしても。
それは、所詮叶わぬ淡い恋。
歳の差もそうだけど何よりあの人には可愛い奥さんがいる。
去年結婚したばかりで、新婚さんだ。
奥さんは小さくてふわっと笑う、でも気さくで素敵な素敵な女性。
あの人は私の、理想そのものだった。
素敵な素敵な奥さんをあいしてる先生のことが、だいすきだった。
感慨深くなってじわりと目頭が熱くなる。
さみしい。
もう、先生生徒の関係がなくなってしまうことが。
そう考えると、涙が次々に排出されていった。
その時。
「片倉!」
「! 柏木先生……」
呼び掛けられ、振り返るとそこには、今想っていた当の本人が立っていた。
柏木先生はさっきまで泣いていたのか、少し赤い目を弧にして、私の頭を撫でた。
「…卒業、おめでとう」
優しいだいすきな人の声に、また涙が滲む。
でも顔をぐしゃぐしゃにしたくないからぐっと堪える。
「ありがとうございます、……先生」
「あのな、片倉」
「はい」
「先生な、今朝早くに、子どもが生まれたんだ。女の子だ」
「え……」
がん、と頭を鈍器で殴られた気がした。
衝撃。同時に幸せな気持ちが胸に広がる。
先生は幸せそうに照れ臭そうに笑った。それにつられて私も笑顔になる。
すきな人の幸せを幸せに感じられる不思議な感情。これに名前はないのかな。
なんて、そんなことを思っていると勝手に緩んでしまう顔を抑えながら先生は続けた。
「それでな、名前を弥生にしようと思うんだ」
「えっ。先生、それって」
「そうだ、片倉から頂こうと思って。どうかな」
その言葉を聞いた途端、涙が零れた。
次々に出ていく透明のそれは、ブレザーの裾を濡らしていく。
不思議な感情が強くなった。
先生を失う恐怖、淋しさ、虚無感、虚空感。
それなのにどこか満たされていて、幸せで、嬉しくて。
「ありがとう…先生…」
先生。
この言葉にどれ程苦しんだだろう。
もっと早く生まれたかったとどれ程悔やんだだろう。
それも今日で終わりだ。
先生は私との新しい関係を残してくれた。
それでもう、充分だ。充分すぎるよ。
ありがとう。
やっと、あなたから卒業できそうです。
「卒業、おめでとう」
桃の花びらはピンク色のからだをひらひらと舞わせながら、
優しく私たちを包んだ。
桃色の季節
(ああこれが、せいしゅん、)
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