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 自分が鈴と出会ったのは、影対"罪"の全面闘争――パシフィスの火――から数年経ってからのことだ。
 "罪"の連中は頭(かしら)を喪い、表面上の活動は沈静化していたが、影の方も事情は同じで、将来を有望されていた面子の殉死もあり、組織の基盤はがたがたに揺らいでいた。自分も無傷ではなかった。火の期間に右目の視力を無くした俺は、現役を退いて管理職のポジションに就き、組織の立て直しに奔走していた。将来は隣にいてほしいと約束していた親友は鬼籍に入ってしまっていた。
 一報を聞いたときは信じられなかった。あのルネが、まさか死ぬだなんて。
 パシフィスの火の後、数年はシューニャとともに各地の様子を視察に回っていたものの、彼の体力の衰えと"罪"の輩に襲撃される危険性を踏まえ、形式上は隠居生活をしてもらうことになった。
 慣例となっていた日本産の手土産を携え、久方ぶりに訪れた彼の幻住庵で、俺は鈴に出会ったのだった。
 初めて会ったとき、鈴はまだ十代だった。シューニャからの小言を聞き流しながらテーブルで菓子をつまんでいると、後方から視線を感じた。振り返ってみれば、年若いアジア系の相貌をした娘が、茶器の乗ったトレイを持ってドアの傍らに立っている。覚えのない顔立ちには、怯えが生じていた。
 後から本人に聞いた話だけれど、その際俺のことを怖い人だと思ったらしい。まあ無理もないだろう。身長は185cmあるし、現役の名残で無駄に筋肉が付いているし、髪は全部後ろに撫で付けていたし、極め付きに右目は眼帯で覆われている。初対面で怖がるなという方が厳しい。
 やあ、と声をかけてみると、びくりと小さな肩が跳ね、コーヒーカップが音を立てた。その様は人慣れしていない野生のうさぎを思わせた。

「君もこっちに来て、一緒に食べないかい」

 笑いかけると、おずおずと彼女は頷いた。


 彼女は小さな声で、鈴といいます、と名乗った。

「リン。素敵な響きだね、よく似合っているよ」
「そ……そうですか?」
「なんじゃお主、口説いておるのか? わしが許さんぞ」
「そんなんじゃない、ただ思ったことを言っただけで――」

 そういったやり取りに馴染みがないのか、鈴の可憐な白面が朱に染まった。
 それからは、彼女は始終無口だった。菓子を少しずつかりかりと食べる様子は、か弱い小動物を連想させた。おそらく予見士の一人だろう、と見当をつけ、素性はそれ以上尋ねなかった。
 そうこうしていると、俺の前にあった、自分用に取り分けた菓子の皿を、シューニャが勝手に鈴の方へと押しやる。

「ほれ鈴、こやつの分も食うてやれ」
「俺が買ってきたんだぞ……」
「わしが貰ったものなんじゃから、わしがどうしようと自由じゃろう。つべこべ抜かすな、図体の割に器が小さい男じゃのう」
「……まったく口の減らない爺さんだな」
「ふん、わしを口で負かそうなんぞ百年早いわい。この鼻垂れ小僧めが」
「もうすぐ三十になるんだが……」

 呆れてものを言うと、くすくすという控えめな笑いが聞こえた。鈴が可笑しそうに目尻を下げ、口元を押さえていた。
 目が離せなくなった。小さな野の花が咲くのに似た、主張しないけれど華やぎを持った笑み。それだけで、今まで関わってきたどの異性とも違う人だと分かった。そのまま数秒惹き付けられたが、またシューニャに小言をぶつけられると感じ、いそいそと視線を戻す。
 シューニャは目くじらを立ててはいなかった。代わりに、俺たち二人を唖然として眺めていた。彼のそんな表情を見るのは初めてで、思わず面食らった。
 その日は次の朝まで滞在することができたから、一部屋を借りて羽を休めた。そろそろ眠ろうかとしていると、ドアをノックする者がある。開けると、神妙な顔つきのシューニャがそこにいた。乏しい光源の中で、灰色の目の底がきらりと光っている。

「お主に話があっての」
「なんだ、改まって」
「入るぞ」

 可否を口にする前に、シューニャはするりと自分の脇をすり抜け、不遠慮にベッドの中央にぼすんと陣取った。ホテルと同じく一ルームしかない部屋の中で、仕方なく立ったまま己の上司の話を聞くことにする。
 いつもぬけぬけと詭弁を弄しているシューニャの老獪な目は、しかし今は真剣そのものだった。

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