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「行こう、麗衣」
「ちょ、ちょっと待ってよ……っ」
「すみません、後続のお客様がいらっしゃいますのでスムーズな搭乗をお願いしまーす!」

 慌てふためいて後ろに戻ろうとすると、係の人に静止される。ゴンドラの中へと否応なく押し込められる。そして私の思いも虚しく、無情に扉は閉められた。
 どうしよう。乗ってしまった。がたがたと体が震えだした。私は、観覧車が大の苦手なのだ。
 観覧車というか、狭くて高いところが怖い。狭いのも高いのも、どちらかだけなら平気なのに、二つが合わさってしまうと、途端に激しい恐怖に襲われる。だから高層エレベーターも絶対に外は見ない。何かトラウマがあるのかもしれないが、もう覚えはなかった。
 ゴンドラがゆっくりと上昇に転じ、景色が小さくなり始める。へにゃへにゃと椅子まで辿り着いたところで、じわっと涙が滲んできた。
 諒くんは、体のどこかが痛むかのように、ぐっと唇を噛み締めていた。しかし私には、彼のその表情の意味を推し量る余裕はない。だって、私が観覧車を苦手としていること、彼は知っているのだから。6年前、教育実習生に質問する時間に、好きなものと苦手なものを尋ねたのは、他ならぬ諒くんだったのだから。

「諒くん、どうしてこんな嫌がらせするの! 私が狭くて高いところ、大の苦手だって知ってるくせにっ」

 声は情けなく震えた。大人の余裕も何もなかった。恐怖で、心臓がばくばくいっていた。

「麗衣、落ち着いて」
「落ち着いてじゃないでしょっ、ほんとは私のこと、嫌いなのッ」

 ああ、高い、狭い。なんでこんな、どこもかしこもガラス張りの構造にするのよ。怖い。先生、助けて。
 恐怖心が極限まで高まった、その時。
 諒くんが、ふわりと私を抱き締めた。耳のそばで名前を呼ばれ、背中がぞくりとなる。

「好きだ」
「何……」 
「少し見てるだけで分かったよ。麗衣、あの人のこと本当に好きなんだろ。だったら、こうする他に勝てる方法ないじゃん」

 それは、切迫した口調だった。もしかして、恐怖による脈拍数の増加を見込んで、私を観覧車に乗せたのだろうか。だからこそ、罪悪感を噛み締めているような表情を浮かべていたのだろうか。そこまでして、勝ちにこだわっているなんて。

「ごめん」

 諒くんが呟いて顔を近づけてくる。私は観念して、脱力し目をつぶった。
 彼の唇が寄せられる。もう色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざって、どれがこんなにも心臓を急がせているのか分からない。早く終わって、とそればかり考えていた。これ以上は心臓が壊れると思うくらい、拍動が激しくリズムを刻んだ。
 そして、諒くんの唇が触れる。
 血の気が引いて冷たくなった、私の頬に。
 


 ゴンドラが下降し、そこから出たときのことを、私はよく覚えていない。朦朧とした意識が明瞭になると、ベンチの上で桐原先生に膝枕されていた。どうも無意識に彼にねだったようだ。反射的に上体を起こそうとすると、もうしばらく横になっていた方がいいですよ、と落ち着いた声に諭された。
 
「悪かったよ」

 というのは諒くんの声だ。彼はばつが悪そうな顔をして、横たわる私の前に跪き、手首に装着してある脈拍計を操作した。
 彼の声が最大脈拍数を淡々と読み上げるのを、まっさらな心持ちで聞く。

「172」

 ああ、そんな。
 驚いたときに目の前が白くなるのは本当なんだと、私は初めて知った。足元がぱっと開き、奈落の底まで落ちていく、そんな感覚が襲う。
 ――私、諒くんと付き合わなきゃいけないんだ……ここに、大好きな人がいるのに……。でも勝負だもん、仕方ないよね……。
 言い聞かせようとしても、目の前が潤んだ。
 諒くんはふと立ち上がり、私の顔を眺める。そして。

「……俺の負けだよ」

 確かに、そう言った。
 きょとんとする。桐原先生も、ぽかんとしている気配がある。
 諒くんは、寂しげに微笑んでいた。

「麗衣のそんな顔見せられて強引になれるほど、俺も無神経じゃないよ。麗衣には、俺より相応しい人がいるんだな」
「諒くん……」

 私は今度こそ上体を起こし、諒くんとまっすぐ見つめ合った。その瞳は滲んでいるようにも見えた。
 ほどなく、それじゃあ幸せになれよ、と言い残して、諒くんが踵を返す。

「あの、諒くん、待っ……」

 腕を伸ばし、追いすがろうとする。しかし、私の肩を、桐原先生の手が掴んだ。
 彼の方を仰ぎ見ると、彼は静かに首を横に振る。

「引き留めないであげてください。彼、泣き顔を見られたくはないでしょうから」
「あ……」

 先生には、分かったのか。
 もう一度諒くんの方を見やる。6年前より確かに逞しくなった背中が、徐々に徐々に、遠ざかっていく。その背中に、聞こえないだろうけれど、ありがとうと呟いた。
 しばらくして、私たちも帰りましょうか、という先生の発言に我に返る。

「はい」

 しっかりと頷いて、私は彼の広い背中に続いた。

――パルスレート・ドラマチカ!

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