(7/10)□□
 イルカショーが終わると、持ち時間の終わりまでは20分ほどで、私たちはその間にお土産を見ることにした。
 さっきまで先生の手と繋がれていた右手がまだ熱い。彼の手の感触がまざまざと残っている。手を重ねてイルカショーを観るなんて、まるで恋人同士だ。今さらながら、恥ずかしくなってくる。
 お土産売り場には多種多様な商品がこれでもかとばかり並んでいた。お菓子もキーホルダーもぬいぐるみも、普段使いできる文房具まであり、目移りする。
 その棚の一角に、私はびびっとくるものを見つけてしまった。
 直立した体勢で手を繋いだ、二匹のカワウソのぬいぐるみ。
 男の子は青い蝶ネクタイを締め、女の子はピンクのリボンを頭に着けている。手先に磁石が仕込んであり、それによって手がくっつくため、二匹を別々に独立させることもできる。
 ――どうしよう、可愛い……。
 あまり人には言っていないが、私はけっこうぬいぐるみが好きだ。キャラクターものはそんなに興味がないけれど、動物園や水族館に行った思い出に、ついつい購入してしまうことが多い。自室のベッドの上には常に2、3体のぬいぐるみが鎮座している。
 そして、どうだろう。このカワウソたちを私と桐原先生に見立てたら。仲良く手を繋ぐ二人。ああ、良い……。自分の想像に、身悶えする寸前だった。
 いや、分かっている。分かってはいるのだ、もうぬいぐるみ好き〜(はぁと)とか言っていられる歳ではないことくらい。
 買うか、買うまいか。内なる葛藤と闘いながらぬいぐるみとにらめっこしていると、とうとう別れて商品を見ていた桐原先生に見つかってしまった。
 彼が何か言いかけるより早く、私はしゅばっとカワウソたちを棚に戻した。先生が不思議そうに首を傾げる。

「あれ? 買わなくていいんですか?」
「いいんです、それよりもう時間ぎりぎりですよね、そろそろ外出ましょ、ほ、ほほほ」

 我ながら誤魔化し笑いが下手だ。
 軽く失意を覚えながら、出口へと向かう。先生は一旦は私に着いてきたが、何か思うところがあったようで、ちょっと待っていて下さい、と言い残してUターンしていった。私はひそかに心の中でおいおいと泣いた。
 ――カワウソさんたち、今度一人で来るときは絶対買ってあげるからね……待っててね……。

「これ、どうぞ」

 数分も経っただろうか、先生の声がして、何かの影が私の前に差し出された。しょんぼりしたままそれをよく見ると、仲睦まじげに手を繋いだ、あのカワウソのぬいぐるみではないか。
 えっ、と驚いて先生を振り仰ぐ。

「どうして……」
「悩むほど気になったものは、手に入れないと後で後悔しますよ」

 その声は、とてもまっすぐで衒(てら)いがなかった。
 私はぬいぐるみを受けとる。ふわふわとしていて、なかなか手触りがいい。

「す、すみません……あ、そうだ、お代を――」
「いえ、これは私からのプレゼントということにして下さい。お代は要りません」
「ありがとうございます……あの、でも、引きませんか?」
「引く?」
「私の年齢で、ぬいぐるみが好きとか……」

 声は尻すぼみに小さくなった。いい歳してぬいぐるみが好きだなんて、馬鹿にされるんじゃないか。現に、ぬいぐるみを抱く私に、子供が不思議そうな顔を向けて歩み去っていく。先生も、もしかして内心では軽蔑しているのでは。
 しかし、彼は何を言われているのか分からない、という表情をしていた。

「別に、何歳で何が好きでもいいんじゃないですか。それで誰かに迷惑をかけるわけでもないんですから」

 その言葉にはっとする。と共に、そう論理的に考えられる人は少数派なのではないか、とも思う。大多数の人は、自分がどう思うか、他人がどう思うか、そんな感情が大切なものだから。
 でも、先生がそう言ってくれるなら、他の誰に何と思われようが関係ない、私はそう思った。
 彼に深く感謝しながら、カワウソを一匹ずつにする。リボンを着けた片割れを先生に差し出した。この日のことを、先生にも覚えていてほしかったから。
 
「あのこれ、よかったら持っていて下さい。思い出に」
「あれ? そちらでいいんですか。ネクタイの方じゃなくて」
「ええ、いいんです」

 そのぬいぐるみを私だと思って、今日のことを思い出して下さいね。
 ――なんて、言えるわけあるかーい!
 自分で自分にツッコミを入れる。気恥ずかしさと、理想と現実との果てしないギャップに、ぼすぼすとぬいぐるみに顔を埋めて耐えた。先生がぎょっとした顔になる。
 ああもう。なんだか良い雰囲気だったのに、どうしてこう上手くいかないんだ。


 もう、交代の時刻が迫っている。私たちは水族館の自動ドアを抜け、出口へ向かう小路へ歩を進めた。真夏ほどの蒸し暑さはないが、真昼となるとまだまだ暑さが厳しい。
 水族館をこれほど楽しいと思ったのは初めてだった。私はこれが勝負の一環だという事実を半ば忘れて、純粋に楽しんでいたのだ。もっと先生と一緒にいたかった。名残惜しい思いで、ちらと先生を見上げる。それを察したのか、下向きになった先生の視線と私の視線とがまともにぶつかり、慌てて目線を逸らす。

「……水城先生、ちょっと止まって下さい」

 出し抜けに桐原先生が制止して、手で私の行く手を塞ぐようにする。こんなところで、どうしたんだろう。はい、と答えながら先生の方を振り向くと、そこには怖いくらい真剣な顔があった。やや切羽詰まった気配で、こちらにぐっと体を寄せてくる。え、何なに、この状況。
 もはや先生の体は眼前にあり、彼は右手をこちらへ、正確には私の顔の横へ伸ばしていた。
 この先のシーンが、脳裏にぱっと展開する。もしかして、私の気持ちが伝わってしまったの?
 嘘。こんなところで? 外なのに?
 きゅっと一度は縮んだ心臓が、今度はどくどくと激しく脈打っていた。いきなりの事態に、私は何とか言おうとする。でも。

「動かないで」

 先生の、有無を言わさぬ口調。もうどうにでもなれと覚悟を決め、来る感触に備えて、顔を心持ち上に向けてぎゅっと目を瞑る。桐原先生相手なら、何がどうなっても構わなかった。
 そのまま、数秒。
 予期していたことが唇に起きないので、そろそろと目を開ける。
 先生がそこに立っていて、掌を上に向けていた。そこから何か小さな影が飛び立っていく。

「髪に虫が。もう取りましたよ」

 彼の表情はもう普段の穏やかなものに戻っていた。
 ああ、虫。虫ね……。

「え、ああ……ありがとうございます……」

 拍子抜けして、腰まで抜けそうになった。そこにへたりこまなかっただけ偉いと思う。盛大な勘違いをしていた自分が恥ずかしい。穴がなくても掘って入りたい。ちょっと考えたら分かるではないか、先生がこんなところで、キスなんてする人じゃないことくらい。
 たぶんこれが、先生の持ち時間一番のどきどきだったかもしれない。
 そこでちょうど、タイムアップとなった。

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