(6/10)□□
 勝負開始から約二時間が経過したところで、ぴんぽんぱん、と館内放送が流れる。落ち着いた調子の女性の声が、11時半からイルカショーが始まることを告げていた。

「せっかくだから行きましょうか」
「はい! 行きましょう」

 頷きあい、屋外のイルカプールへと足を向ける。そちらへと向かう人の波ができていた。
 お昼時にも差し掛かっているため、プールのそばにある出店めいた趣のある売店で、焼きそばとカレー、唐揚げ、蓋のついたカップの飲み物を購入し、お昼ご飯にすることとした。プールを段状に取り囲む席は、きゃっきゃっとはしゃぐ子供たちで賑わっている。
 ずっと歩き回っていたので、案外おなかが減っている。ショーが始まる前に、私はカレーを一掬いして口へ運んだ。桐原先生も、焼きそばを口に含んで咀嚼する。そして、なんともいえない微妙な表情を浮かべた。

「どうかしました?」
「いえ、なんというか……値段の割には美味しくないような……」

 苦虫を噛み潰したような彼の顔に、思わず軽く噴き出してしまう。

「ふふ……こういうのって、雰囲気を味わうものだと思いますよ。お祭りの屋台とかと一緒で」
「そういうものですか……お祭りも、行ったことがないもので」
「え」

 嘘でしょ。水族館だけでなく、お祭りも?
 私は傍らに座っている愛しい人の顔を見上げた。不思議な人だなあと思う。こんなに格好いいのに、私が知らないすべてを知っていそうなのに、水族館もお祭りも行ったことがないなんて。もしかすると、動物園だったり遊園地だったりも、まだ未体験なのかもしれない。そんな可能性が頭に浮上して、彼をどこへでも連れていってあげたい気持ちになった。
 私の視線に気づいて、彼も私を見返した。

「あの、じゃあ、今度一緒に行きません? お祭り」
「……ええ、その機会があれば是非」

 先生は数瞬目を丸くしたが、すぐににっこり笑ってくれた。
 それが社交辞令でないことを、切に願う。
 やがてスピーカーから軽快な音楽が流れ、舞台上にイルカのトレーナーさんたちが駆け足で姿を見せた。
 イルカショーを観るのも久しぶりだったから、イルカが陸に上がって背中やおなかを見せ、体の構造をトレーナーさんが説明してくれたときには、へええと感心した。天高くくくりつけられたボールや、トレーナーさんが掲げる輪に向かって、高々とジャンプするイルカたちの姿に、素直に感嘆のため息が漏れる。シートの前列の方には、連続ジャンプの後で盛大に水しぶきがかかり、会場から温かい笑いが起こった。
 ふと先生を見ると、彼はイルカの一挙一投足(イルカに足はないが)を食い入るほど真剣に見つめていた。そして何やら口元が動いている。
 歓声を縫って耳を澄ますと、

「あのボールを高さ……として、あそこに届くには水面を出る……初速度は……」

 などと呟いている。
 私は目を見張った。イルカの素晴らしいスピンジャンプも忘れ、彼に釘付けになった。先生は、水面から飛び出るイルカの速度を計算しているのだ。イルカの泳ぐスピードなど、これまでショーを観ていて、考えたことなど一度もなかった。
 私は感慨深く嘆息する。彼といると、そういう世界の切り取り方もあるのだ、と思い知らされる。一人では見えない、新しい色が風景に着いて見える。別の扉を開けば、これまでとは違うパノラマがどこまでも広がっていると、教えてもらえる。
 だから私は、彼の隣にいるのが好きなのだと思う。
 しばらくすると、先生ははっとしたようにこちらを見、ばつが悪そうに笑った。

「すみません、鬱陶しかったですよね。つい、数式に落とし込もうとするのが癖で――」
「いえ、全然。むしろ、先生にはそういう風に見えてるんだって分かって、面白いです」

 にっこり笑うと、彼は安心したように相好を崩した。
 その後は互いに無言で、めくるめくショーに浸った。目の前で、フィナーレを華々しく飾るように、イルカたちが一際見事なジャンプを決める。爽やかな陽射しを浴びて、数えきれない水の粒が、イルカを讃えるみたいにきらきらと輝いた。
 私たちは、ショーが終わりを告げるまで、どちらともなく掌を重ね合わせていた。

back


(C)Spur Spiegel


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -