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 じゃあ俺は外で待ってるから、せいぜい頑張ってくれよ桐原さん、と言い残して諒くんは去っていった。マイペースだなあ、と私は苦笑いせずにいられない。
 時刻は9時半。その場に残された私たちは、どちらからともなくお互いに見つめ合っていた。

「なかなか難儀なことになりましたね」
「そうですね、すみません……」
「いえ、水城先生が謝ることではありません。それより、ひとつ確認しておきたいことがあるのですが」
「何でしょう」
「あなたは、私相手にどきどきしますか」

 不意な質問にすぐ答えられず、桐原先生の整った顔を見やる。彼は至って真面目な顔で、私を見返していた。こんな真面目な顔で、そんな質問されたことないよ……。私の両頬が、一拍遅れて熱を帯びてくるのを感じた。
 こみ上げてきた恥ずかしさに、視線を下げて小刻みに首肯する。ああ。普通なら、こんな態度を取れば、好意はすぐに伝わってしまうんだろうな。けれど、相手は桐原先生だから、きっと伝わらない。そのことが安堵を誘うが、同時に寂しくもあった。

「そうですか。では、行きましょう」

 桐原先生は平然とした面持ちで、私の手をふわりと握った。
 えええ! そんな不意打ちってあり?
 先生の掌は私なんかより一回りも二回りも大きく、厚く、しっかりとしていた。安心感を感じさせる手だった。
 のっけからすごくどきどきしながら、私たちは水族館へと踏み入れる。


 チケット代は先生が払ってくれた。私が付き合わせているのに申し訳なかったが、彼が気にしないで下さい、と言うので気にしない他にない。
 この水族館に来るのは数年ぶりだった。水族館には様々な生物が飼育されていた。魚にはじまり、貝、珊瑚、甲殻類、タコやイカなどの軟体動物、イモリやカエルなどの両生類、亀やワニなどの爬虫類、ペンギンやペリカンなどの鳥類、それにラッコやアシカ、アザラシなどの哺乳類までいる。改めて挙げるとその種類の多様さに驚く。
 綺麗な水槽を見て回るうち、私は目的も忘れてはしゃいでいた。水生生物はもともと好きなのだ。

「うわーっ、この水槽も綺麗ですね! ……って、すみません。なんだか私だけが楽しんでて……」
「いえ、私も楽しんでいますよ。水族館は初めて来ましたから。……いや、大事なことが懸かっているあなたの前で、そう言うのは失礼ですが」
「いや、全然いいんですけど……それより初めてって、本当ですか?」
「はい」
「え、この水族館がというわけではなく? 今まで1回も?」
「そうですね」

 思わぬ告白に、面食らって目をぱちくりさせる。彼女とのデートで、水族館に来たこととかないのだろうか。すぐには飲み込みがたい言葉に、無遠慮に彼の顔をまじまじと見てしまう。そういえばここに至るまで、先生は館内のすべてを、物珍しそうにじっくりと観察していた。
 桐原先生は、水族館に来るのが初めて。
 そう改めて噛み締めると、体の底からじわじわと嬉しさが湧き上がってきた。無意識に、ぐっと小さくガッツポーズを作る。
 
「つまり私は、先生の初めてを貰ったというわけですね!」

 勢い込んで言うと、

「はあ……"貰う"……?」

 理解を保留するように、先生は曖昧な相槌を打った。
 私の突拍子もない台詞は、彼を当惑させてしまっただろうが、私の機嫌は上向きだった。今にスキップでも始めて、鼻を歌いたい気分だ。
 そして更に、私を上機嫌にさせる生き物がグッドタイミングで登場する。次の角を曲がったところに現れたのは、流木や木の箱が入れられた、水辺を模した大きな展示スペースだった。その中を、細長く焦げ茶色の、イタチに似た生物が、ちょこまかとすばしっこく動いている。
 私は反射的に、わあと声をあげてアクリルガラスに走り寄った。カワウソだ。
 水槽には他にも、たくさんの人がへばりつくようにして彼らの動きに見入っている。カワウソは人の視線など気にならないように、陸では敏捷に走り回り、水中では目にも止まらぬ泳ぎを披露していた。そして木箱の中では、小さい赤ちゃんカワウソが足をぎこちなく動かしてよちよちと歩いていた。か、可愛い。
 桐原先生は数秒遅れて、私の隣までやって来る。
 
「すみません、はしゃいじゃって……私、カワウソ好きなんですよね」

 弁解する私に眉をひそめるでもなく、先生は目元を緩ませていた。

「ええ、水城先生の目がきらきらしていたので、私にもよく伝わってきました」
「えっ、そんなきらきらしてたんですか」
「はい、とても」
「そ、そうですか……」

 先生が割と私を見ていることに赤面してしまう。俯くと、ちょうど一匹のカワウソが私たちのすぐ近くまで来ていて、その好奇心を感じさせるくりくりした目と目が合った。
 桐原先生がしゃがんで、カワウソと目線を合わせる。カワウソは前足を持ち上げ、アクリルガラスをかりかりと引っ掻いた。その仕草を見る桐原先生の顔は、確かに優しく微笑んでいた。

「水城先生に似ていますね」
「ええっ! そうですか?」
「ええ」

 予想外の感想に、私は高い声をあげてしまう。私も腰を落として、カワウソをじーっと注視する。それでもカワウソは逃げなかった。
 うん、可愛い。やっぱりすごく可愛い。殊に、むきゅーんとω(オメガ)の形をした、ふくふくとした口元が。でも、私はこんなに可愛らしくない。
 桐原先生がふふっと笑い声を漏らした。

「そっくりですよ。特に、口のあたりが」

 綺麗なωを指さして言う。ああ、そういうことか……。
 私は笑ったときに、どうもアヒル口っぽくなるらしく、先生はそれを指しているのだろう。別に可愛いと言われているわけではない。気づいてから、羞恥で顔がかっかと熱くなるのを止められなかった。

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