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 その夜、帰ってから、僕はなんだか気が昂ってなかなか寝つけなかった。ベッドの上で天井を眺めたまま、まんじりともせずに30分が経ち、一時間が経った。眠気がやってくる気配がないため、いっそ眠くなるまで起きていようと開き直り、リビングに降りてソファに体を沈める。そうして、膝に乗せた愛猫・ノイの背中を延々と撫で続けた。
 黒くつややかな毛並みを滑る手が、思考のリズムを整える。考え事が見えない糸となり、細く長く縒(よ)り紡がれる。

 "いつでも連絡して下さいね。待っていますから。"

 その言葉が、また頭の中に響いた。
 もし。もし僕がドミトリーさんの部下になるとしたら。
 諜報部のエージェントは、言ってしまえばスパイだ。それまで自分を構成してきた要素をすべて捨て、関わってきたもの全部を諦め、新しい名前と身分と経歴を与えられ、別の人間として孤独な道を歩むことを求められる人生。ドミトリーさんの部下の素性を僕たちの誰も知らないように、諜報部のエージェントになってしまえば、もう交流のあった人とは絶対に会うことができなくなる。
 ヴェルナーさんともう会えなくなる。
 僕にとって、それがどういう影響を与えるかを言い表すのは難しい。なにせ、ヴェルナーさんとは七歳の頃からずっと一緒にいるのだ。ヴェルナーさんが側にいるのが当たり前で、そこがぽっかりと抜け落ちてしまうのは、どうしても想像の範囲外だった。

「なんだよ。まだ起きてやがったのかよ」

 ドアが開いて、当のヴェルナーさんがリビングに入ってきた。呆れたような嘆息とともに。
 ヴェルナーさんはVネックのシャツとジャージ地のスラックスという格好だった。さっきまで寝ていたならば、下着以外は身に着けていないはず。ヴェルナーさんも、眠れずにずっと起きていたらしい。

「ヴェルナーさんだって起きてるじゃないですか」
「俺は夜型だからいいんだよ」

 ヴェルナーさんは僕に相対するように、ソファの真ん前にその長身を預けた。コップにミネラルウォーターを注ぎつつ、的外れな返答をよこす。
 水をぐびりとあおった彼の、突き出た喉仏が大きく上下するのをぼんやり見やる。その直後、赤い瞳が僕をがっちり捉えて、少し動揺した。

「……何ですか」
「ハンス。お前さ、俺よりあいつの方がいいのか」
「話が唐突すぎますって……」

 言いたいことは分からないでもないが、僕は苦言を呈した。コップをテーブルに置いたヴェルナーさんが、苦い顔で後頭部をぼりぼりと掻く。

「昼間の会議の後で、俺も考えたんだ。悔しいけどよ、ドミトリーの野郎の言うことにも一理あるってな。俺は上司とか師匠らしいこと全然やれてねえし……お前、本当はどう思ってる? お前があいつのとこに行きてえってんなら、俺は止めない。止める資格がない。だから本音を教えてくれ」

 ヴェルナーさんの目の奥が珍しく揺らいでいた。
 その様子を見たとき、僕の心のぐらつきは止んだ。つまるところ、僕が言うべきことはひとつしかなかった。

「言ったじゃないですか、まだこの場所でやりたいことがあるって。それを済ますまでは、どこに行くつもりもありませんよ」
「そのやりたいことって、何なんだよ」
「あなたの立場を奪ってやることですよ」

 僕はにんまり笑ってそう言う。心底愉快げに思いながら。ヴェルナーさんは口をへの字に曲げ、憮然とした表情をつくる。
 その視線はもう僕ではなく、手元のコップに移されている。ヴェルナーさんの手がコップを回転させると、ガラスの表面が照明を反射してきらめいた。

「……そうかよ。なら、いい」
「理由はもうひとつありますよ。僕に会えなくなったら、ヴェルナーさんは寂しがるでしょう?」
「寂しくなんかねーよ。お前みたいな厄介者、いなくなってせいせいすらァ」

 突き放すような、ぶっきらぼうな語調だった。
 僕はそこに幾ばくかの寂しさが滲むのを感じとったが、そうあればいいなという僕の願望が、幻を嗅ぎとらせたにすぎなかったのかもしれない。
 ヴェルナーさんがぬっと出し抜けに立ち上がって、リビングから出ていく。早いとこ寝ろよ、という取って付けたような言葉を残して。僕は、彼の広い背中をずっと見送っていた。

「ねえノイ、こういうの、あと何回繰り返せばいいんだろうね」

 膝の上で脱力している相棒に話しかける。猫が人の言葉を理解してくれるはずはないから、これは独り言だ。喉を撫でてやると、彼女は気持ち良さそうにごろごろ言いはじめる。
 つくづく僕らは馬鹿だなあと思う。
 ヴェルナーさんは指摘しなかったけれど、僕が彼の立場を奪うなんてことは不可能だ。僕が影の支援部所属で、彼が執行部所属である限り。これまで執行部と諜報部の連携がほとんどとれていなかったように、影は部署が違えばほとんど別組織だ。だから、僕がヴェルナーさんと同じ土俵に立つなんて、最初からできない相談なのだ。つまり、僕がヴェルナーさんの立場を奪うまでここにいる、と口に出すのは、永遠に彼の隣に居続ける、と宣言しているのと同義だ。
 ヴェルナーさんだってそんなの分かりきっているだろう。でも彼は敢えて否定しない。僕が何やかや理由をつけてこの場所に留まりたがっているのを、察してくれているからだ。そして僕の気持ちに気づいていると、僕に悟られないようにしてくれている。僕はそれらをすべて分かった上で、彼に反発するような真似をしているのだ。
 ヴェルナーさんはとても優しい。表面上は無愛想で粗野に振る舞っているけれど、僕には分かる。その優しさは、おそらく彼なりの罪滅ぼしなのだろうと思う。かつて、僕との約束を破ってしまったという、些細な罪の。
 そして僕は、彼を嫌いなふりをして、彼の優しさにどっぷり甘えている。
 互いに互いを翻弄して、試して、挑発して、最後にはまた同じところに戻ってくる。僕らの関係はそんな風に円環の形状をしていて、そして途方もなく歪んでいる。
 僕らは道化だ。何度も同じいさかいをなぞっている道化だ。
 結局僕はヴェルナーさんから離れられないだろうから、ドミトリーさんには何か巧い言い訳を考えなきゃいけないな、と考えた。

――エンドレス・サークルをなぞって

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