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 少年が息せききって教会の前に駆けつけると、そこは黒山の人だかりになっていました。 
 火事です。
 あの珍しい木造の教会は、天を焼き尽くさんばかりの炎の塊となって、ごうごうと燃え盛っていました。ばちばちと何かが爆ぜる音もします。少年は開いた口を塞げずに、しばらくそこに立ち尽くしていましたが、やがて人混みにやみくもに突っ込んでいき、人の壁からふらふらと教会に近寄りました。
 火は赤々と、見上げるほどに燃え盛り、頬が焦げ付きそうな熱さです。その目映さは圧倒的な熱量でした。教会は黒い影となり、焔の中で身悶えするように揺らめいています。消防士が水を放射していますが、生き物めいた炎は身をくねらせるだけで、勢いが衰える様子はありません。
 神父さま、と少年は呟いて、熱で陽炎う教会の中へ走りこもうとしました。そんなことをしても、自分が火勢に飲まれるだけだと、少年の頭に声が響きます。それでも、少年はそうしなくてはいられなかったのです。

「坊主、何してる! 近づくな!」

 誰かが叫びますが、少年の耳には届きません。
 行かなきゃ。僕が。
 だって、あそこに、神父さまが。
 少年の体はしかし、がくんと何かに引かれて止まりました。少年がのろのろと後ろを振り向くと、そこにいたのは、いつかの礼拝で見かけた美貌の青年でした。
 青年はまったく落ち着いていました。以前の邂逅でも驚嘆したうつくしさは、何ら変化していませんでした。彼は細腕で少年の肩をしっかりと掴み、どこまでも静かな光を目にたたえています。

「離し、て……神父さまを……助けなきゃ…………」
「君まで死ぬことはないよ」

 うわ言のように震える声を押し出す少年に、青年は凛とした声で告げました。
 君まで。じゃあ、神父さまは。もう。
 少年の口がわなわなとわななきます。全身から力が抜け、少年はその場にへたりこみました。

「さあ、おうちへお帰り。ここは危ない」
「帰るところなんて、ありません……」

 声は弱々しく、蚊の鳴くようでした。少年は絶望の奈落に突き落とされていました。ついさっきまであんなに幸福だったのに、もはや少年には、本当に何もなくなってしまったのですから。これから始まるはずだった明るく朗らかで豊かな生活は、炎によって灰になり、吹き消え、永遠に失われました。
 青年は少年の様子をじっと観察していましたが、おもむろに少年の手を引くと、薄暗い裏道へと連れていきます。

「何があったんだい。ぼくに話してごらん」

 青年は穏やかな声音で問いました。
 少年は、既に彼は一から百まで承知なのではないか、という不思議な思いを抱きながら、神父さんに話したように、たどたどしくもすべてを伝えました。神父さんの前で嗚咽したのが、まだ今日の夕方の出来事だなんて、少年には信じられませんでした。
 天使にそっくりな容姿の青年が、少年の頭を撫でます。

「君にいいことを教えてあげよう」

 青年は、微笑んでいるように見えました。

「この世には、神なんていないんだよ」

 そう、神さまに祝福されて生まれてきたはずの青年は言い放ちました。
 少年は口をぱくぱくさせます。ショッキングな台詞に、口の中がからからに乾いていました。

「そん、な……こと……」
「だって、考えてもみてごらん。君には豊かな才能がある。それが神からの贈り物なのだとしたら、どうして君に、こんな惨い仕打ちをするだろう」

 青年の言葉は、ひたひたと打ち寄せる冷たい波のように、少年の心を浸食していきます。
 だったら彼はなぜ、礼拝堂で神父さんの話にじっと耳を傾けていたのでしょう。もう、少年には何もかも分かりません。分かりたくもありません。少年の目は、それ以外に機能を失ったかのように、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし続けます。

「帰るところがないなら、ぼくと一緒に来るかい」

 それは、雲間からすうっと差す月の影のような、絹の肌触りのような、なめらかな声でした。少年は青年の顔を見上げました。暗がりにいるのに、青緑の双眸はきらめき、少年の心を吸い寄せます。まるで特別な魔力を持っているようです。
 少年は、こくりと頷きました。まるで、何者かに操られているみたいに、すんなりと。
 青年はその麗貌を崩し、にこりと破顔しました。

「じゃあ、ひとつ条件があるんだ」

 青年は、仕立てのいいジャケットの内側から、何か細長いものを取り出して少年の手に握らせました。懐にあったのにそれは冷たく、ずしりとした手応えがありました。
 少年は手の中にあるものを見ます。刃渡り15cmほどの、鞘がついた銀のナイフでした。
 暗い予感がします。少年の声や体はぶるぶると震えます。

「な、に、これ……」
「これで君の家族を、君にひどいことをした悪魔を、殺してくるんだ。それができたら連れていってあげる」

 その声音に高ぶったところはなく、穏やかに歌うような口調でした。

「ころ、す……? 僕が……?」
「そう。君がやるんだ」

 少年の顔から血の気が引きました。
 殺す。僕が。
 あの人たちを、これで、刺す。
 現実に言われていることとは信じられず、少年の顎が振動し、歯ががちがちと鳴ります。青年はゆったりと淑やかな手を差しのべ、少年の掌ごとナイフを掴みました。

「君は憎いはずだよ、あの人たちが。彼らが、君に何をしてくれた? 彼らは君を痛めつけた。君の才能を食い潰し続けた。君はもっといい生活を送れたはずなのに。生きるのに値する人たちだと思う? 君には何もなくなってしまったのに、彼らは今までと同じように食べ、笑い、生活していくんだ。それが許せる?」

 青年の冴えざえとした言葉たちは、少年の脳髄に、ひたりひたりと冷たく浸透していきました。
 青年の手の内で、少年はナイフをぐっと握り直します。

「復讐するんだよ」

 青年はやはり、微笑んでいました。

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