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 またある日のことです。
 少年以外の家族が旅行に行くというので、間借りをしている家からは人の気配が消えていました。食事は保存食で済ませ、外出は控えるようにおじさんからはきつく言い渡されていましたが、少年は夜暗に紛れ、こっそりと家を抜け出ました。少年にはしたいことがありました。それは、夜のあいだしかできないことでした。
 夜の街を、少年はほとんど見たことがありませんでした。家々からはあたたかい明かりと食事の匂いが放たれ、そこかしこで人びとががやがやとざわめき、陽気な歌を歌っている者さえいます。大通りから外れた裏路地の奥では、淀んだ暗がりに下着のような格好の女が佇み、下卑た笑みを浮かべた男と、何事か言葉を交わしています。煙草の煙が漂ってくるそこには目もくれず、少年はある場所へと駆けていきました。
 少年の向かう先は教会でした。尖塔のてっぺんにある十字架は夜の闇に沈んで見えず、日中よりも建物が一回り膨れたように、自分の体が一回り縮んだように感じます。教会はいつでも門戸を開いていましたから、夜気に冷やされた扉に手をついて力をこめると、大きな暗がりが少年を迎え、すっぽりと体を包み込んでくれました。
 屋内はひっそりと静まりかえっていました。ここだけ、時の流れから解き放たれたようにも思えます。窓から射し込む月明かりで、おぼろげながら物の形が見えました。目が慣れるのを待ってから、少年はしずしずと歩みを進めました。その先には、オルガンがあります。神父さんが讃美歌の伴奏に使う、ちんまりと慎ましいたたずまいの、足吹きのオルガンです。
 少年は礼拝に通ううちにいつしか、一度でいいからこのオルガンに触れてみたい、という願望を胸の内に育てていたのです。
 オルガンの椅子に座ると、ギギッと耳障りな音が講堂いっぱいに響きました。少年はぎくりと身を強ばらせましたが、気を取り直して足を動かし、そっと鍵盤に触れてみました。
 瞬間、少年の指先から、弾けるように音が生まれました。予期していたよりも大きく、金いろになびく麦畑のように、ふくよかな音でした。少年は指を曲げ伸ばししながら、色々な位置の鍵盤に指を乗せていきます。右にいくほど高い音、左にいくほど低い音。
 少年のなかで、何かがぱちんと爆ぜました。それはおそらく、目覚めの合図でした。少年は、この楽器を理解しました。
 すう、と息を吸い込んで、簡素な伴奏と、大好きな讃美歌のメロディーを思い浮かべます。そして、頭のなかで鳴っている響きの旋律を、なめらかに10指へと乗せていきます。
 少年は完璧でした。完璧に、複雑な讃美歌の旋律を再現できていました。自分の指が奏でる響きに酔いしれながら、少年はいつしか、目を瞑って演奏していました。
 やがてアーメン、の残響の終息とともに、あたりは再び静寂に包まれました。少年はゆっくりとまぶたを持ちあげます。そこで初めて、自分のすぐそばに人影があることに気づきました。少年はびくりと凍りつきました。
 そこには、驚き、呆然とした表情の神父さんが立っていました。
 長いことオルガンを弾いていたのだから当然の成り行きとも言えるのですが、少年はすっかり誰かが教会に入ってくる可能性を失念していました。それくらい、自分の世界に入り込んでいたのです。一瞬拍動を止めた心臓は、今度はばくばくと早鐘を打ちはじめました。

「あ、あの、ごめんなさい――僕、僕……」

 もつれる舌で、少年はなんとか弁明を試みようとしましたが、なかなか言葉が形になりません。そうしているうち、少年は次第に泣きそうになってきました。ぼろぼろのズボンを握りしめながら、歯を食いしばって、目の縁から滴がこぼれるのをこらえます。
 少年の反応をほぐすように、神父さんは優しげな声をかけます。

「君は、いつも日曜礼拝に来てくれている子ですね?」

 少年はびっくりして思わず、神父さんの顔をまじまじと見ました。日曜の午後のような柔和な微笑がそこにはありました。しかし少年の心は、動揺と混乱と焦燥とでいっぱいでした。
 どうしよう。まさか顔を覚えられているなんて。どうしよう。もしも家族に連絡されたら。どうしよう。こんな時間に教会に忍び込んだなんて知られたら、帰る場所がなくなってしまう――。

「僕……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 とうとう、少年のひとみから涙が溢れだしました。滴はとめどなく流れます。あんな冷たく不快な場所でも、少年にとっては唯一の居場所なのです。少年にはあの家以外、拠りどころとなるものは何ひとつ無いのです。
 神父さんはちょっと困った顔をして、それでも微笑みながら、少年の頭をそっと撫でました。

「おやおや、泣かなくてもいいのに。とても素晴らしい讃美歌でしたよ。驚きました。あの曲は口伝えで歌い継いできたもので、楽譜もないのです。それをどうして弾けるんですか?」

 少年は困惑しながらも、どうやら神父さんは怒っているわけではなさそうだ、と悟りました。同時に、問いかけに対して首を傾げました。あの讃美歌は、毎週毎週何回も聴いて覚えているのです。それをそのまま鍵盤に移し換えればよいのです。それができない理由などありましょうか。
 少年は自分の思いをなかなか音にすることができず、もごもごと口元を動かし続けました。何しろ、少年は普段ほとんど人と話す機会がないのです。おじさんの家では質問は禁止されていましたし、家族から声をかけられることもまったくと言っていいほどありませんでした。心の声をどう実際の音にすればいいのか、少年には分からなくなりかけていたのです。
 神父さんは、もじもじする少年の様子から、何もかもを察したようでした。己を納得させるようにひとつ深く頷いて、厳かな声でこう言いました。

「君、音楽の教育を正式に受けたくはないですか」

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