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※性的描写、同性愛的描写があります。



 シャワーで髪を濡らしていると、出し抜けにドアが開いて、ヴェルナーさんの声が浴室に響いた。

「よう、久しぶりに一緒に入ろうぜ。体洗ってやるよ、ハンス」

 僕はびっくりして、椅子に座ったまま飛び上がる。シャワーのお湯も出しっぱなしのまま、振り向く。
 うっすら立ちこめた湯煙の向こうに、優しげなほほえみを浮かべて、ヴェルナーさんが立っている。その筋肉の隆起と浴室のやわらかい灯りとが、肌の上にきれいな陰影をつくっていた。
 そのたくましい姿を見たとたん、どうしてだろう? 僕の心臓がばくんと跳ね上がった。ヴェルナーさんの裸を見るのがなんだか気恥ずかしくて、顔が熱くなって、慌てて目を逸らす。
 最後にヴェルナーさんとお風呂に入ったのなんて、最低でも2年は前だ。どうしていきなり、事前に何もなしで、ヴェルナーさんは"一緒に"なんて言い出したのだろう。驚いたけれど、でも、嬉しい。僕は、ヴェルナーさんに髪と体を洗ってもらうのがすき。ヴェルナーさんの手は、僕よりずうっと大きくて、触られるときもちいいから。

「うん……」
「そんじゃ、髪から洗うか」

 ヴェルナーさんの声が近づいてくる。プラスチックの椅子がタイルをこする音。ギッと軋む音で、ヴェルナーさんが僕のすぐうしろに腰を下ろしたことが分かった。間近に感じるヴェルナーさんの気配に、どうしてだか胸が高鳴った。
 僕はヴェルナーさんの髪の洗いかたを完璧に覚えているから、見なくたって分かる。シャンプーを手の上でようく泡立てて、指の腹と掌を使ってわしわしと豪快に洗う。でも決して爪は立てない。力強いのに、優しい洗いかたなのだ。

「流すから、目と耳ふさいで、鼻から息吐いてな」

 その指示に従い、お湯をかけてもらう。ヴェルナーさんがお風呂場に現れたときのどきどきはまだ続いているけれど、もうだいぶん落ち着いてきた。
 次にヴェルナーさんは石鹸を手に取る。ちょっと手が動いただけで、魔法のようにもこもこの泡がたくさん生まれる。
 僕の体を洗いながら、ヴェルナーさんが鼻歌を口ずさむ。僕もそれに合わせてハミングする。2人の好きなメロディーが、浴室に響いて空間を満たす。僕はヴェルナーさんが歌う歌がすきだ。歌だけじゃなくて、ヴェルナーさん自身のことも大すきだ。おなかに響くような声も、長い手足も、精悍な顔だちも、引き締まった筋肉も、何もかもがすきで、そして羨ましかった。僕も、大きくなったらヴェルナーさんみたいになれるといい。
 泡ごしに、ヴェルナーさんの掌が僕の肌の表面をすべる。数年前と変わらず、ヴェルナーさんの手は心地好かった。ヴェルナーさんの手はいつでも熱いのだ。でもなんだか、前の心地好さと、すこうし違っているような気がした。うまく言えないけど、触られているうちに、自分の内側がむずむずしてくるような。
 ヴェルナーさんの手が、肩、腕、胸、おなか、腿と移動していくうち、体の真ん中がじわじわと熱くなってきた。頭もぼーっとする。無重力空間をふわふわ遊泳している、そんな気分になってくる。本当に、ヴェルナーさんはすごいや。
 すると不意に、ヴェルナーさんの大きな手が、僕の下腹部をまさぐってきた。
 背中を何かが駆けのぼるような感覚があって、全身が反射的にびくりと跳ねる。ヴェルナーさんがふふっと含み笑いを漏らした。その鼻息が首筋にかかって、ぴくりと反応してしまう。

「お前、いっちょまえに毛ェ生えてんのな、ここ」

 ヴェルナーさんが耳元でささやく。
 僕の口から、は、と妙に熱っぽい息が漏れた。
 そこを誰かに触られるのは初めてじゃない。何年か前、見知らぬお兄さんに家に連れ込まれて、体を触られたことがあった。街なかでショーウィンドウを眺めていたら、僕と遊んでくれたらお金あげるよ、と声をかけられたのだ。
 僕はそのときヴェルナーさんにプレゼントをしたくて、だけど自由にできるお金なんて微々たるものだったから、きっともの欲しげな目をしていたのに違いない。甘い台詞に釣られてのこのこ着いていったら、お兄さんは目の色を変え、僕に覆い被さってきた。
 怖かった。怖くて、嫌で、ぞっとしたけれど、何をされているのか理解できず、喉が震えて何の言葉も出てこなかった。そこを、ヴェルナーさんと白猫のルーエに、危機一髪で助けられたのだ。
 あのときの手つきはおぞましいだけだったのに、なぜかヴェルナーさんのは全然嫌じゃなくて、逆にきもちよかった。泡でぬるぬるして、変な気分になってくる。発熱する前みたいに、背筋がぞくぞくっとする。でも、嫌なぞくぞくじゃない。
 そこをきれいにしたら、ヴェルナーさんの掌は離れてしまう。そう考えたら急に寂しくなって、僕はまだそこにある長い指を押さえた。行かないで。もっと、もっと触っていてほしかった。名を呼んだら、ヴェルナーさあん、ときもち悪いくらい甘えた声が出て、それが浴室に反響した。

「気持ちいいのか?」

 ヴェルナーさんが低く問う。僕はぼんやりしてきた頭を奮い立たせて、こくこくと頷いた。
 ヴェルナーさんがゆっくり手を前後させる。こんな感覚ははじめてだった。どこまできもちよくなるのか、これ以上は怖いのに、もっともっと、もっと芯のほうまで、とねだりたくなるのはなぜなんだろう。
 気づくと呼吸が荒くなっていた。息も熱い。僕はいったい、どうしたんだろう。どうなってしまうんだろう。

「気持ちいいか、ハンス」
「ゃ……、ヴェルナーさん……」
「嫌か?」
「……ぅうん……もっと…………」
「ハンスは甘えん坊だな」

 声で僕を包みこむような、ゆったりと優しげな口調だった。
 すき、と思った。僕にとって、ヴェルナーさんはとくべつなのだ。ヴェルナーさんになら、何をされても嫌じゃない。ヴェルナーさんの掌、その熱さに、僕はもうすべてを委ねていた。きもちよすぎて、心臓がどきどきしすぎて怖いけれど、ヴェルナーさんに任せておけば大丈夫。そう思いながら体をひねると、深く澄んだまなざしがそこにはあった。
 赤い視線に射抜かれた瞬間、ぞくっと体に電流が走った。ぶるり、と全身が震える。音が遠のいていく。



 そこで目が覚めた。
 んー、まだ眠い、と傍らのぬいぐるみを抱き寄せて二度寝しようとする。そしたら、下着からいやあな感触が伝わってきた。
 一発で頭が覚醒する。
 たぶん、いや確実に、濡れている。
 うそだうそだ、と五感を否定しつつ、パンツの中を覗きこむ。だって、もう今年13歳になるのに。そんなはずない。お漏らしなんて。
 そっとパンツの隙間を見やると、見たことのない白いものが、布地にこびりついていた。
 さーっと顔から血の気が引く。
 ――どうしよう。変な病気になっちゃった。

「ヴェルナーさん、ヴェルナーさん!」
「なんだよ、朝っぱらからうるせえな。飯はまだできてねぇぞ」

 部屋を飛び出し、どたどたと階下に駆け降りていくと、ヴェルナーさんは朝食の準備をしてくれていた。慌てる僕を呆れたように眺める。その眼は、夢のなかの眼とは全然違っていた。
 あれ? そういえば、夢ってなんだっけ。なんだかいい夢を見ていた気がするけど、今はそれどころじゃない。
 ごはんの支度で、両手が濡れたままのヴェルナーさんにひしとすがりつく。その顔が迷惑そうに歪んだ。

「なんなんだよ。どういうつもりなんだよ、お前」
「ヴェルナーさん、あのね……僕ね、病気かもしれないの……」
「はあ?」
「起きたら、あの……あのね、白いおしっこが出てたの……」

 顔から火が出そうだ。この歳でお漏らしをしたことを、よりによってヴェルナーさんに言わなきゃいけないなんて。でも、一人では病院に行けないし、病院に連れていってもらうには、ヴェルナーさんに頼る以外に方法がない。
 僕のたいへんな告白を聞いても、ヴェルナーさんは取り乱すこともなく、ただ得心がいったとばかりに、ああ、と軽く呟いた。

「お前、起ったの初めてか。おめでとさん」

 ヴェルナーさんに抱きついたまま、僕は思わず、え?、と聞き返した。おめでとう、の意味が分からなかったのだ。高い位置にある整った顔を見上げ、目をぱちくりさせながら、尋ねる。

「……僕、病気じゃないの?」
「ちげーよ。前に教えたことあるだろ、精通ってやつだよ。お前も、大人の男への一歩を踏み出したってこった」

 事も無げに、ヴェルナーさんは言う。
 言われてみれば、そんなことを教わったような。気が動転していて、目の前の白いものと、記憶のなかの文字情報とが、まったく繋がっていなかった。ぜんぶ、僕の思い違いだったのだ。
 ヴェルナーさんからそっと離れてもじもじしていると、今度はヴェルナーさんが僕に顔を寄せてきた。わざわざしゃがんで、水気を拭った指で僕のほっぺたをつんつんつつく。ヴェルナーさんの口元は、締まりのないにやにや笑いだ。
 嫌な予感がした。 
 
「で? 夢精するとか、どんなエロい夢見てたんだよ、え? ハンス君の初めての相手は、どんな子だったのかなー?」
「え……相手、って……」
「好きな子に色々してもらってたんだろ? いやァ色々って、俺の口からは言えねえけどな。斜向かいのギーゼラちゃんか? それとも、隣の区画のマリアちゃんとか?」

 ヴェルナーさんがへらへらと女の子の名前を羅列する。
 僕はようやく思い出した。さっきまで、夢のなかで、ヴェルナーさんに優しくしてもらっていたことを。夢で会ったヴェルナーさんが、僕の、はじめての相手だということを。
 夢に見たヴェルナーさんは、あんなに優しくて、かっこよかったのに。
 いま目の前にいるヴェルナーさんは、にたにた笑うばかりで、そんな優しさともかっこよさとも、かけ離れた存在だった。
 でも、あの夢を見た張本人は、確かに僕なのだ。
 ヴェルナーさんがぱちんと指を鳴らす。

「あ、分かった! バスでよく一緒になる金髪碧眼の綺麗な子だろ。俺よりちょっと年下くらいだろうけど、そっかぁ、お前も年上好きかあ。年上っていいよな、あの子の名前知りたいよなー」

 ヴェルナーさんは自己解決し、うんうんと首を振る。人の気も知らないで。
 僕はぷるぷる震えながら拳を握った。
 
「の……か……」
「んん? 誰だって?」
「ヴェルナーさんの、ばかぁーっ!」
「えっ」

 ヴェルナーさんの頬にパンチを食らわし、僕はふたたび自分の部屋に戻った。
 今朝の夢のことは、絶対にヴェルナーさんには言わない。そう心に誓った。

――はじめてのひと

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