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 あの日。忘れられない夜のこと。 
 私は一度、彼の逞しい体に縋ってしまった。彼の優しさに付け入って、彼を利用した。その行為は恐らく、彼を深く傷つけた。涙を、見せてしまったから。
 私は彼の好意には応えられない。応える資格がない。私は、彼に後悔を植えつけただけの女だ。
 だのに彼は、私に負い目を感じるなと言う。縛られるなと言う。小賢しい女だと知ってなお、愛していると言う。 
 そんな風に、まっすぐな目で見ないでほしかった。ヴェルナーの尽きることのない情愛は、私のように打算的でなく、もっと普通の、純粋な心を持った人に、注がれるべきだと思った。そうしてそのような女(ひと)と二人で、幸せになってほしかった。 
 互いにぽつぽつと、呟くように会話をする。 

「……自由だと言う割に、私を諦めてくれる気はないのね」 
「勿論」 
「私はあなたに酷いことをしたのよ。あなたの心を傷つけた」 
「傷ついたのは君の方だろ。俺のことは気にしなくていい」 
「……あなた、頭がおかしいんじゃないの」 
「うん、君のことが好きすぎて、おかしくなっちゃったかもしんない」 
「罵ってくれていいのよ? 誰にでも体を許す尻軽女だって」
「そんなこと、俺が言えた義理じゃないさ」

 そう言って微笑むヴェルナーの表情には、明らかな憂いが滲んでいる。これが傷ついた人の顔でなくて、何だというのだろう。 
 ぐっと顎を上げ、ねえヴェルナー、と今度は私が呼びかける。 

「あなたは、起こりうると思うの。籠から逃がした鳥が、自分から籠の中に戻ってくるなんてことが」 

 あの日の夜、私は確かに彼の籠の中にいた。計算ずくの行為が終わって、私が去ろうというとき、ヴェルナーは私を引き留められたはずなのだ。 その意思さえあったなら。
 彼はそれをしなかった。彼自身の優しさのために、私を逃がした。籠の外で私がする行為が、再び自分の心を傷つけると知っていて。 
 ヴェルナーは今も、籠の扉を開け放して待っているのだ。自らが開けた籠の中へ、私が舞い戻ると信じながら。  
 彼は煩悶を隠すように伏し目がちで、その様子が却って、痛々しげだった。 

「そうだねぇ……そういうことがあってもいいんじゃないかな、とは思ってるよ」 
「そう……そうね。何をどう信じるかは人の勝手だわ。たとえそれが、どんなに現実味の薄いことだとしてもね」 

 私の言葉はもはや八つ当たりになっていた。 
 目の前の微笑は揺らがない。私の方が泣きそうだった。 
 ヴェルナーの優しさは、見はるかす海のようにどこまでも広く、大きく、深かった。私がどんなに酷い仕打ちをしようとも、かすかな笑みをその口元に湛えて、全てを受け入れ、全てを許すに違いなかった。 
 こんなに狡い女に、変わらぬ愛を囁いてくれる、彼の神経が理解できない。私には、底のないその優しさが怖かった。 

 彼の優しさは私を駄目にする。 

 今度こそ、私は彼に背を向けた。 
 私たちの間には、忘れられない夜が横たわっている。二人を繋ぐのもその夜で、隔てるのもその夜だ。こんなに近くにいるのに、彼との距離はこの上なく、遠い。 
 あの日から、私の夜は続いている。彼の籠から飛び出ても、終わらない夜に囚われている。淀んだ澱(おり)の底で、果てない夜の檻の中で、もがいている。
 それでもあの夜を、過ちだとは思いたくない。
 私の本当の名前を呼びながら、私を抱きしめてくれる人は、きっと後にも先にもヴェルナーだけだろうから。
 彼からの二度目は無く、ドアが閉まる直前、ヴェルナーが私へ向けて小さく手を振った。 

「またね、Vögelchen小鳥ちゃん」 

 私は彼の部屋に背を向ける。かちゃりと小さい音をたて、ドアが閉まった。 

――夜の澱/檻に歌う
(よるのおりにうたう)

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